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七幕の三・世に明けぬ日はあらじ
寝不足である。
翌朝、紅花はどんよりとして目を覚ました。
一応のところ床に潜って寝はしたが、熟睡せぬ間にもう朝である。
どうやって布団に入ったかも覚えていない。
まるで、飲んでもいないのに二日酔いの心地だ。
宴の空気に中てられて、ある意味で泥酔したのに違いはない。
玉露はと言えば、これはもう慣れたもので特に疲れたふうもなく、いつも通りの遅寝に遅起き、
ぼそぼそと昨夜の名残りに箸を鈍らす紅花の皿から主菜を奪い取る健在ぶりである。
紅花が寝惚け眼で昼行燈と化していることを除けば、いつも通りの日常であった。
チュンチュンと膨れた雀が寒そうに、しかし暢気そうに、向かいの軒先で飛び跳ねながら鳴き交わしなぞしているのを眺めつつ、
紅花はのそのそと布団を干したり掃除をしたりする。
覇気はなくとも怠けはしない。
そこのところ、紅花は真面目だ。
昼をいくらか回ったところで、通いの者らがちらほらと二階の部屋を埋め始めた。
昨晩見た顔もあったが互いにちょんとお辞儀を交わすのみで、これといった会話はない。
元々、ろくに躾もなっていない通い者どもと紅花とでは境遇が違う。
たまに玉露が客からの貰い物を気紛れに下げ与える他に交流なぞは殆どない。
昨晩の座敷に彼らが居たことの方が不思議なくらいだ。
大方、祝いの席とあってご馳走にありつけると算段したか、
調子のいい猪田がついでとばかり賑やかしに引き込んだかのどちらかであろう。
一階の甘味処を手伝う気力は湧かず、また呼ばれもしなかったから、
紅花は通り一遍の仕事を終えると玉露の私室に戻った。
部屋では玉露が文机に向かい、いつもながらの午睡にしどけなくなっている。
着崩れた衿元から覗く項に、日が射して遅れ毛を銀色に輝かせていた。
投げ出された手指の先に、竹細工の籠が見える。
四方を囲われた梅盆栽が、固く小さい芽を飾っていた。
早や暦の上では春である。
るりるりと、鳴き交わす小鳥の声にも渡りのそれが混じっている。
ぽかりと空いた間に、紅花はふと己が境遇を思った。
部屋の隅に置かれている自分専用の長持ちを開けて覗く。
何を探すでなし、暇のついでに整頓しようとしているともつかぬ、なんとはなしの手慰みだ。
手に当たったのを取り出しては一時触れて、飽いたら丁寧にしまい込み、また何かしら取り出してみる。
着物、簪、匂い袋、
懐紙入れに丸い手鏡、帯締め、根付け、
頂き物の菓子の包み紙、奴の形に折った千代紙、錦絵、
古い暦の絵柄の部分。
不思議に綺麗な色付きのセロファン、未だ開かない秘密箱、
ぺしゃんこになった紙風船、紅の貝殻、蒔絵の道具箱。
さして褒められなかった句を書きつけた短冊、
栞の押し花、水笛、風車。
ガラクタもそうでないものも、同じように大事にしまわれている。
どれも、かつての自身とは縁のないものだった。
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