七幕の三・世に明けぬ日はあらじ

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直接の関りはないにせよ、兄を死なせ、それを黙秘し、天罰が下って親に捨てられた。 流れた先は色売り屋。 人買いは女衒(ぜげん)であったのだろう。 親はそんなつもりはなかったのかもしれぬ。 丁稚奉公と称したは偽りではなく、本当にそのつもりだったのやもしれぬ。 田舎の者だ、騙されるに容易かろう。 或いは事実、女衒でなく、 単に口減らしにあった子を適当な者に繋ぐだけのただの人買いであったのかもしれぬ。 たまたま売れた先が陰間茶屋であっただけ。 それとて表看板は甘味処であり、ここは茶屋町(ちゃやまち)であって花街(かがい)ではない。 寺川町(てらかわちょう)は寺と川とが織りなす風情が売りのささやかな観光地であり、 歓楽街の芝居町(しばいまち)はあれども悪所とは呼べぬ、穏やかな地だ。 紅花が日々やっていることと言えば、布団を干し、部屋を掃除し、 お稽古ごとに精を出し、時折甘味処の手伝いをし、 玉露の仕度を手伝って、夜毎の客を案内し、ちょこんと座って花を添え、 時々酌をし、たまに舞を披露し、さもなくば先に下がって布団で眠る。 腹いっぱいにはなれずとも朝餉夕餉は与えられ、おやつにありつけることも少なくなく、 綺麗なべべに飾り物。 (あに)さんである玉露の気性は激しく、習いの出来が(まず)ければ折檻を受けることもある。 そうでなくとも罵詈雑言、常々口の悪い彼に褒められることなど滅多とない。 しかして、粗末に扱われた覚えもない。 適当にあしらわれることは多々あれど、大事にされている自覚はある。 店主の親父とその女房にも、まずまず可愛がられている。 それが玉露の師としての矜持故であれ、店主の親父らの金勘定の故であれ、 結果としては同じこと、 目を掛け、手を掛け、育てられているに違いはない。 なんと太平楽であることか。 これを天罰などと呼んではそれこそ(ばち)が当たるというもの。 こんなことで良いのだろうか。 受けるべき(ばつ)を受けぬまま、なんら贖いをせぬままに、 紅花はむしろ幸福とすら呼べる日々を過ごしている自身に気づいて不安を抱く。 幸運に恵まれた、良き縁に巡り合ったと、喜ぶことは容易い。 自身が罰を受ければ兄が生き返るわけでもない。 ならば、省みるだけ無意味であろう。 それよりは素直に有り難がり、周囲への感謝を深くするのが妥当やもしれぬ。 けれどもそうして安穏と過ごすうちに、いつか大きなしっぺ返しを食らうのではあるまいか。 永らく責を逃れた分、膨れ上がった代償はいかほどか。 後ろ向きな考えである。 日頃の紅花なら深追いするものではない。 だがそれは少年の気性がそうというより、日々の忙しさが紅花から思索を奪うためだ。 そしてそれがいつしか、単純で素直な、物事にあまり深く囚われない紅花少年の性格を作っていったに過ぎない。 ぽかりと空いた時間が、古い時分に立ち返らせた。 檜の香る扇子を取り出す。 閉じたまま、すべすべとした手触りを上の空に楽しむ。 檜の白い木肌より、一層白い手指が映る。 己が手である。 爪の整えられて、傷ひとつない手指だ。
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