七幕の三・世に明けぬ日はあらじ

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「あたしを追い落とそうってのかい、百年早いよ  ――とか、そういう事は仰らないので?」 玉露の口真似までしてしつこく尋ねる。 怒らせるかと思ったが、玉露は鼻で笑っただけだった。 「ナマ言うんじゃないよ。それこそ千年早いってんだ。  あんたが水下げされたくらいで、あたしの人気が衰えようってのかい?  客なんざ掃いて捨てるほど居るんだ。あんたに上客全部くれてやったって、新しい男を見繕うくらい朝飯前だね」 それは確かにそうだろう。 紅花は仮に自身が一人前と認められたとて、玉露に追いつけるとは思っていない。 追いつきたいとは願っているけれども。 ふと、紅花は不安を覚えた。 それは本当に自身の望んでいることだろうか。 玉露に認められたいと思っていた。 陰間として一人前になりたいと思っていた。 それが見習い小僧である自身の役目であり、哥さんである玉露の務めに応えることだからだ。 玉露と同じく立派な陰間になること、それが目標であり願いであった。 だが―― 「なんだい、怖気づいたのかい」 せせら哂うように玉露が言う。 言葉に反して、その表情は優し気だ。 どこか倦んだ気配すらする。 それとも憂い気な風情であろうか。 「別に痛かぁしないよ。痛みなんざ覚えたって仕様がないしね。  ()くなる方法を教えてやるさ。どうせだったら()い思いしなくちゃ損だ」 優しいような、投げやりなような、玉露らしいと言えば玉露らしい口ぶり。 紅花は急に眩々(くらくら)した。 血が変に逆上(のぼ)ってくる。 いつだったか、鳳ノ介(おおとりのすけ)に迫られた時を思い出す。 あの時は恐ろしいばかりであった。 加えて言葉でいたぶられ、己が未熟の悔しさに震えていた。 今は。 やはり、恐ろしい気がしていた。 だがあの時と同質ではない。 それよりもっと、悲しい何かだ。 指先が冷え、胸が痛くなるような。 その感覚には覚えがある。 それもまだ記憶に新しいもの、昨夜の宴の席でのことである。 あの時も、傍に鳳ノ介が居た。 だがその存在はきっとさほど重要ではない。 あの男の秘めた惨忍な熱情が、たまたま紅花の痛みを鋭くするべく時機を嗅ぎつけ、居合わせさせているだけである。 紅花が感じている痛みとは、一重に玉露に起因するものだ。 少年は、自身で思う以上に彼を慕っているのである。 それは殆ど恋情だった。 けれども幼い紅花は、自身の立場と相手の立場、各々の役割という表面をなぞって、己が真情に気づけずにいる。 玉露に認められたいのは、恋しい人に愛されたいが故。 一人前の陰間になりたいのは、相手に認められる術をそれ以外に知らぬ故。 一人前の陰間になれば、確かに玉露に認められたことにはなろう。 朋輩として肩を並べることは、紅花にとっても誇らしく嬉しいことに違いはあるまい。 だがそれだけだ。 それは、恋の成就とは違う。 むしろ、恋情とは最も遠い種類の関係性だ。 娼妓同士が惹かれ合ってならぬ道理はない。 しかして、客との色恋遊戯に忙しい身の上で互いに互いを商売敵と意識し合うことはあっても、 恋しい愛しいと思い合うなど戯れにも起こり得ぬ。 ましてや本命になど。 仕込みを受けると言うことは、つまりはそういうことなのだ。 少なくとも紅花にとっては。
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