幕の後・梅に鴬、室を発つ

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幕の後・梅に鴬、室を発つ

あの時、仕込みを受けていたら、何か変わっていただろうか。 哥さんの肌に直に触れ、その重さを感じ、内側をその熱で拓かれていたら。 或いはひとつに溶け合って、この身に宿るつたない恋心が、哥さんの胸のうちにも灯され得ただろうか。 きっと、ない。 肉の交わりなど飽きるほどに繰り返してきた人だ。 そのくらいでは、何も変わり映えしなかっただろう。 ただ、自身が自身の焦がれる思いに気づかされただけに違いない。 それは苦しかっただろうか。 実らぬ思いに気づいてしまったら、つらく、痛く、身を焼く心地を味わっただろうか。 今となっては知りようもない。 今はただ、淋しいばかりだ。 淋しくなってようやく、哥さんへの慕いの意味を、薄々勘づき始めたばかりだ。 この冬、梅の名所が燃え上がった。 それはそれは鮮やかに、見事なまでに燃え上がったので、揚がる火の粉が紅梅の花びらの舞い散る様のようで、美しくすらあったという。 死者、行方不明者の在る中で随分と不謹慎な表現であるが、新聞にはそう載っていた。 同日、哥さんは客の誰がしかと舟遊びに出掛けていて、果たして梅花見には出向いたものか、 誰と、どんな、予定であるか逐一詳しく聞かされていなかったから知らない。 いずれにせよ、その日、哥さんは戻らなかった。 以来、消息不明である。 「まだ冷えるね。ああでも案外、そこは(あった)かそうだ。日当たりがいい」 お邪魔するよと、挨拶を前後させてトキワさんがやって来た。 相変わらず、飄々として掴みどころのない人だ。 勧めもしないうちから縁側に腰かけ、日向ぼっこを楽しむ猫みたいに伸びをした。 「片づけは済んだのかい」 「いえ、まだ」 後ろの部屋を振り返りながらトキワさんが問う。 釣られてチラと目をやりながら返事した。 日当たりのいい縁側の板張りの床が白く光っている分、少し暗く感じる六畳間に小物が散らかされている。 荷ほどきの途中で放り出されたままだった。 荷と言っても自身の持ち物は多くないから、長櫃ひとつで事足りる。 用意されていた箪笥も抽斗も使うまでもない。 だから実際には荷ほどきしていたと言うよりも、単に中身を引っ張り出しては、まだそう遠くもない日の思い出に浸っていただけなのだろう。 どれもこれも、茶屋での日々で得たものだ。 『梅に鶯』はただの甘味処になった。 肝心の陰間が居なくなっては陰間茶屋として成り立たぬ。 通い者どもだけでは話にならない。 風聞も悪かった。 梅林の火事は大きく報じられ、寺川町で知らぬ者はない。 その事件の直後に売れっ子の陰間が消えたとあっては、双方を繋げて考えるのは自然なこと。 しかも居なくなったのは哥さんだけではない。 『梅に鶯』では店主の倅と抱えの陰間が手に手を取って駆け落ちした、とそんな噂が流れているらしかった。
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