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あり得ない。
あんな乱暴狼藉しか取り柄のないろくでなしと、哥さんが実は密かに通じ合っていたなどと、いくらなんでも無理筋が過ぎる。
でも、あの日以来、親父さん方が我が子の帰りのないことを嘆いているのも事実だった。
二人とも急に歳を取ったみたいに萎れてしまって、あまり商売に身が入らないみたいだ。
別れの挨拶をした時の顔を思い出す。
笑顔だったが侘しげだった。
一度だけ、引き留められた。
今さら陰間になれとは言わないから、うちの子としてここで暮らさないか、と。
そんなように思ってくれていたことが有難く、ずっと金にがめつい夫婦だと思っていたことを申し訳なく感じた。
なんと応えて良いか分からず、首を左右だけして断った。
少しだけ、後悔している。
だって一人は淋しいから。
「本当に良かったのかい」
トキワさんが言った。
一瞬、思考を読まれたみたいに感じて驚いたけれど、違った。
トキワさんの目は天上やら梁やら、どこと言うこともなく家屋全体を見渡している。
「少し広すぎるだろう。掃除をするのも大変だ。僕が一緒に暮らしても良かったんだよ」
「いえ。トキワさんが勝手に住み着いていては、哥さんが帰った時にお冠でしょうから」
「不動産屋に付き合ったのは僕なんだけどねえ」
黒塀の戸建ての平屋は、元は妾宅だったという。
哥さんはこれを買い上げ、終の棲み処と定めていたらしかった。
いつ、ということはなかったらしいが、いずれ陰間を引退したら、ここで踊りか何かの師匠でもして暮らすつもりだったようだ。
ここに連れて来られた時、トキワさんに聞いた話だ。
「思うにあの人は端から君を陰間にするつもりはなかった。
芸事の一切はいずれ身を立てるに役立つから教えていただけで、だから閨事を仕込まなかったのじゃないかな」
トキワさんは言いつつも、同意を求めている風ではなかった。
「似合ってるよ」
目線をこちらへ移してニコリとする。
「まだ慣れません」
優しい目つきがくすぐったく、恥ずかしくなって俯いた。
膝小僧が赤くなっているのが見える。
縁側から投げ出した両脚は、足先が沓脱まで僅かに届かず、ぷらぷらとお行儀悪く揺れている。
剥き出しの両膝は、当たり前に自分のものであるのに新鮮に感じられる。
ここへ移ってから、洋装をするようになった。
髪形もこの年頃の少年として当たり前の形に切った。
硬い襟のシャツは着物と比べて喉首が窮屈で、だからまだ寒い日も多いのに開襟ばかり着ている。
半ズボンに靴下、ズボンと同じ生地でできた上着、出掛ける時は茶色い皮の靴に臙脂色のマフラー。
トキワさんが選んで揃えてくれた。
どれも質が良く、上品で、慣れない窮屈さはあるけれどけして着心地は悪くなく、多分とてもお洒落だと思う。
春になったら、学校にも通う手筈だった。
書類上の養い親はトキワさんである。
いくらなんでも若すぎるし、お嫁さんを貰ってもいないうちから父親役だなんてと、何度も断ったが聞き入れてくれなかった。
意外と頑固な人だったようだ。
別にお父さんなんて呼ばせるつもりはないし、同居を強いるつもりもないから、そう心配しないでよ。
そうトキワさんが言ったので、それ以上は断りかねて、名義上の養父となって貰った。
「ああ、そうだ。紅花くん、君、まだアレは持っているかい」
不意に問われて解しかねる。
哥さんと居た時は気づかなかったけれど、トキワさんはあまり文脈と関係なく話す癖があるらしい。
「アレ、ですか?」
「そう、アレ。秘密箱だよ。まだ開いてないんだろう?」
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