幕の後・梅に鴬、室を発つ

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秘密箱。 以前、トキワさんがくれたものだ。 (こま)やかな寄木細工の美しい箱である。 決まった手順に沿わないと開かない、複雑な仕掛けがされている。 一時(いっとき)夢中になったものの、開けられないまましまい込まれていた。 「それなら、ここに」 折角頂いたものを飽いてしまって放置していたとは言いづらい。 気まずさを誤魔化して、縁側を離れる。 六畳間にぽつんと置かれた櫃を漁って、両手に持って彼の横へ戻った。 「これこれ」 言うなりトキワさんは手を伸ばし、秘密箱を受け取ると、ちょっと日に翳すようにして眺める。 次いで、少しもあるようには見えなかった取っ掛かりに爪を立て、小さな部品のようなものを引っ張り出した。 途端、別の個所が僅かに突起し、そこから次々と色んな部位を操作してゆく。 「……開けられるんですか」 しばし呆気に取られて見続けた後、訊ねると、 「開けられるよ」 と、トキワさんは気安く請け合った。 どうして、と重ねて問うより先にトキワさんが種明かしする。 「こういうものは初めに説明書が付いているものさ。買った本人が開けられないんじゃ、使い様もないからね。  僕はそれを読んでいたという訳。わざと君には箱だけ渡したんだけどね。その方が面白いだろう?」 確かに、それはそうかもしれない。 大事なものをしまって隠す道具としては、手順を記した説明書きは不可欠であるし、単純に玩具として弄ぶなら、説明書きは余計であろう。 「これで最後だ」 カチリ、と微かな音がしたように思えた。 秘密の開く、かそけき響き。 どうぞと手渡され、ぽかんとしたまま受け取った。 後はもう、窪みに指先を引っかけるだけで抽斗が開く状態だ。 「どうして」 尋ねた言葉は何に対してか。 すでに少し空いた隙間から、白っぽく薄っぺらな紙きれの端のようなものが見えていた。 入れたのはトキワさんに違いない。 どうして何かを入れていたのか、どうしてそれをくれたのか、どうして今、開けたのか。 見上げる先でトキワさんは答えない。 柔和に笑んでいる。 この人は、とても優しい顔つきの人だというのに気づいた。 人当たりがいいのは知っていたし、好意的に感じてもいたが、 いつも飄々として軽薄な印象が強かった。 だがそれにもまして、思いやり深く、思慮深い、優しい表情の人だったのだ。 気づかなかった。 いつも、哥さんとの関係の中でばかり他人を見て来ていたから。 それとも、哥さんばかりに目を奪われていたから。 個として他者の姿かたちを望み、思いを汲もうとしてこなかったのかもしれない。 トキワさんは優しくて、淋しそうな微笑の持ち主だった。 軽妙な振る舞いは、それをそっと包み隠す、ある種の化粧なのだろう。 無言の笑みで促されて、抽斗の中のものを取り出した。 やはり白い紙きれだった。 用済みとなった秘密箱を脇に置き、折りたたまれていた紙を開いてみる。 端整な楷書で漢字が書きつけられていた。 これは? と尋ねるより先に、トキワさんが口を開く。 問わず語りな口ぶりだった。 「どういう算段だったのか、自分でも正直なところ分からないんだよ。  少し、腹を立てていたのかなあ。それとも悪戯心だったか。いや、単に構って欲しかっただけかもしれない。  怒るのか、馬鹿にするのか、或いは蔑みすらされるのか。あの人がどんな反応をするのか、知りたいような、知りたくないような」 あの人、というのが哥さんなのは、察しがついた。
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