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「君がもしその箱を開けられたら、そして中のものを見つけたら、君は不思議に思うだろう。
君はきっと誰かに尋ねるに違いない。これはなんだろうって。君にとって一番身近な人は誰か、それは考えるまでもない」
その時その場にトキワさんが居合わせる可能性は低い。
それでも、後々何かしらが起こるとトキワさんは予期していた。
或いは予期ではなく期待だったのかもしれない。
少なくともそんな予感を抱かせる程度には、意味のあるものなのだ。
無論、この紙そのものではなく、そこに書かれた文字に意味があるのだろう。
そう思い至るのを確かめるように、トキワさんはじっと目線を合わせると、
それからゆっくり優しい声で、
「君にあげよう。あの人の、玉露を名乗る以前の、本当の名だ」
と告げた。
「繊細な少年だった。不器用でもあったんだろう。今では想像もつかないほど気が小さくてね。だから、友達を作るのが下手だった。
僕らが住んでいたのは都会じゃないが、田舎と言うほどの場所でもない。だから華族様だって他に居ないことはなかったし、彼だけが特別だったわけじゃなかった。
だけどまあ、やはり多少の気後れはするし、遠巻きにはする。それでも普通は子供同士だし、それなりに友達にはなれるものさ。なのに、彼はどうもダメだった」
一瞬、なんの話をされているのか分からなかった。
だけどあんまり遠い目で、慈しむような響きで、トキワさんが話すので、
とても口を挟む気にはなれず、じっと耳を澄ました。
「愛想がない。ツンケンしている。お高く留まっている。
そんなふうに周りに思われて、誰とも仲良くなれずに、いつも一人で小難し気な本を読んでいる少年だった。
本当は、ただどうやって声をかけて良いか分からなくて、気まずいのを紛らわせるために文字を追っていただけらしいんだけどね」
ふふっと、トキワさんは笑みをこぼした。
当時の様子を思い出しているらしかった。
「僕は初等科の途中で越してきた。父は成り上がりの小金持ちでね、気を大きくして華族様の立派なお屋敷のお隣に、負けじと邸宅を構えたわけだ。
で、当時から僕はこんな性格で、まあ実に軽々しく友達の輪を広げたものさ。
彼ともね、すぐに仲良くなったよ。気後れも気兼ねもしなければ、別に向こうだって拒む意志なんかなかったんだからね」
それから――
言いかけて、トキワさんはふと言葉を閉ざした。
遠い遠い日々へと投げられていた、美しいものを見つめる眼差しが、ついと膝の辺りへ落とされる。
微か、唇が震えて見えた。
「止そう。あまり長々と昔語りをしても、詮無いことだ」
細い指が、右と左と、十の指を交互に組まれる。
骨ばって指が長く甲の広い、男の人の手だ。
掴みたいものを掴めなかった虚しさが、左右の掌の隙間に冷たい風となって吹いているような、心許ない手つきだった。
「古い家柄だったらしい。僕も子供だったから、よくは理解していなかったんだけれどね。
古い血筋の華族にありがちで、栄誉はあれども実態は空虚、多分、元は貴族の家系だったのだろう。商いにも政にもましてや戦事になんて縁遠く、どれも得手とする系譜にない。
家業もなければ、役職にもなく、それでいて宴や催しには招じられ、応じないわけにはいかず、応じるからには見栄を張らねばならず、しかし家計は火の車。
挙句、慣れない投機話に飛びついて、借財だけを膨らませてしまったようだ。
その話を振ったのは何を隠そう、うちの父だったらしいんだけどね」
借金取りに債権者、色んな人が押しかけて、ついには一家離散に追いやられたのだとトキワさんは語った。
これまで聞いたこともない程、暗い声で、だけども滔々と、まるで感情を込めないように意図した口ぶりだった。
「一言の相談もなかった。
僕はこれでも親友のつもりだったんだ。僕には他に幾らでも友達が居たが、彼はそうじゃなかったから。
愚かな自負だった。優越感に浸っていただけだったのかもしれない。
だから、……不当に彼を恨んだ」
何も告げず、消息を絶った友。
取り残された者の胸に宿る思い。
「拗らせたんだね。あまりに酷い別れ方だったから。多分、恋なんてものじゃなかった。
かつてそこにあったのは、子供らしい友情で、だけど裏切られたように感じて、無暗な執着心に変った。
父の所業を知ったせいもあっただろう。家を出て、彼を探すことにした。ずっと大人になってからのことだけどね。今更、手遅れなのは分かり切ったことさ」
探偵などという、それこそ実体のない職を肩書としたのは、当てなく友を探す為だった。
見つけて何をしたいのか、自分でも分かってはいなかったとトキワさんは言う。
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