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「トキワと言うのはね、僕が彼につけた愛称だったんだ」
ほら、と指先が紙の上の文字を示す。
読み方を変えるとそう発音できるだろう、と言って微笑んだ。
「自分がそう名乗れば、同じ名の人を知っていると、そう言う人が現れるかと思ってね。
何せ夜逃げ同然で失踪した訳だから、元の名は名乗っていないだろう。だからといって僕のつけた名を使ってくれている保証は、どこにもなかったんだけどね。
一縷の望み、と言うよりもむしろ、願いだったのかもしれない。彼がまだ僕を覚えていて、かつての親しみに惜しむ思いを残していてくれていると。
そう信じたかったのさ。どうにも頼りない話だね」
何一つ手懸かりのない暗中模索、唯一のよすがとした呼び名は、けれども実際には役立たなかった。
かつての少年はトキワなどとは一度も名乗らず、『梅に鶯』の玉露になっていたのだから。
トキワさんが哥さんに辿り着いたのは、たまたまの偶然で、予感も予期も期待もない中でのことだった。
白塗りに紅注し、目元に紫を刷いた陰間の哥さんと、トキワさんはどんな思いで対峙したのだろう。
その時になって初めて、トキワさんはかつての友が色売りに身を落としたことを知ったのだ。
その凋落に受けた衝撃はいかばかりか。
ぱんっ、と乾いた音がした。
ハッとして目を上げる。
トキワさんが顔の前で手を合わせていた。
響いたのは、彼が手を打った音だ。
その響きは、春待ち顔の寒空にすうっと伸びて、溶けた。
「昔語りは止そうと言ったのだった。歳を取るといけないねぇ」
まだ若いのにそんなことを言う。
正確な年齢は知らないけれど、トキワさんはまだ二十歳を幾つか過ぎた程度に見える。
そうならば、哥さんも同じということだ。
なるほどそんなものだろうという気もするし、あの老獪さでそんなに若いはずがないという気もする。
「ともかくそんな訳だから、その名はあの人ので間違いないよ。調べたことじゃないからね、知っていたことだ」
貰ってやってくれないか。
と、トキワさんは先と同じことを言葉を変えて繰り返した。
「紅花というのは源氏名だろう?
それでいけないという事はないが、あまり男の子らしくないからね。と言って、出鱈目な名前を考えるのもね」
紅花は哥さんがくれた名だ。
例え不自然で、この先誰かに不審がられたり、奇妙に思われたりすることがあったとしても、
大事なもので、捨てるつもりはなかった。
そのことをトキワさんは察してくれていたのかもしれない。
「勿論、無理にとは言わないよ。だけどこれなら、君も納得できるんじゃないかな」
哥さんの古い名を頂く。
それは、確かに悪くない提案だった。
遠い昔、その名前だった少年が失った時間、その続きを、代わりに。
「有り難く、頂戴します」
さっきまで意味ない漢字の並びだったものが、酷く愛おしく、重々しく感じられて、
小さく白い紙きれを、胸に押し当てるように抱きしめた。
きっと、お小言を頂戴するだろう。
何を勝手に人の名前を騙ってるんだい、許した覚えはないよ。
そんなふうに詰りつつ、でも唇を弓型にして、からからと笑ってくれるだろう。
その時が待ち遠しい。
それを伝えると、
「君は、少しも疑っていないんだね」
トキワさんは目を細めて言った。
哥さんが死んだとは露ほども思っていない、という意味だ。
誰かと情死するなどと欠片も思えぬ人柄だ。
と同時に、いつ誰と情死してもちっとも不思議でない性分だとも思える。
仮に偶然で火事に巻き込まれたのだとして、
そうそう死んで堪るかという感じもするし、うっかりアッサリ事故死しそうな感じもする。
哥さんは、両極端だ。
天国も地獄も似合うし、どっちにも蹴りを食らわせて呵々大笑、
神様から他人の寿命を引ったくっても長生きしそうでもある。
いずれにせよ、もう会えないなどとは、思えない。
思いたくないのもあるけれど、単に実感が湧かないだけかもしれないけれど、
別離だなんて、これっきりだなんて。
あり得る気がしない。
あの日、あの朝、舟遊びに出掛ける哥さんと、どんな会話をしたのだか、
それも覚えていないくらい、いつも通りだったのに。
最後の会話、最後の挨拶、ひらひらと手を振って、人力に乗りこんだ姿。
どれもいつも通りで、日常で、どの着物を着ていたのだったか、日本髪をどの形に結っていたのか、簪はなんだったか、
他の色んな時と混ざって、区別もつかないくらいなのに。
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