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「思うんだけどね」
また、脈絡なくトキワさんが話す。
耳を傾ける。
まだ冬の名残りの寒風がある。
けれど縁側は日向で、ぽかぽかしている。
「行方不明者の名簿の中にはトリスケさんも、猪田さんも、篠山先生も含まれていたのだし、粋正さんも居なくなってしまったのだけど。
まあ粋正さんについては名簿にはなかったんだが。
なんといっても男爵家の跡取りだからね、揉み消されたのか、関係ないのかは不明だね。
ともかく、潮くんを含め、玉露さん周りの年頃の近い、目ぼしい男どもは総じて消えてしまったわけなんだけれど」
そこで、トキワさんはキラリと目を光らせてこちらを見た。
手品師が今から手品を披露しますという趣の、妙に茶目っ気のある表情だ。
「もう一人、僕の探り当てた情報では居なくなった人物がいる。
これは僕の想像に過ぎないが、彼はその人と失踪したんじゃないだろうか」
そう前置きして、トキワさんは思いがけない名を口にした。
「まあ、失踪と言うより、単に旅行に出たというのが正解だろう。誰にも秘密でね。言ったら大反対されてしまうから。
なにしろ、もう末期だという話で、そう長くはないそうだ。それは僕もあの人から聞いて知っていたんだけどね」
何度か見舞いに行ったと言う。
哥さんの付き添いでだ。
そうでなければ、トキワさんにとっては親しい相手ではない。
「家族にも内緒で、或いは最期になるかもしれないのに、というのは褒められたことじゃあないが、あの人らしくもある。
時々、酷く狡猾で残酷な傲慢さを見せる人だから」
もし本当にそうだとしたら、とんでもないことだ。
あまりに突拍子が無くて、話す相手をまじまじと見つめてしまう。
面白そうに、でもちょっと胸を痛めているように、語るトキワさんはなんとも言えず複雑な表情だ。
当然である。
事もあろうに、死期の迫った重病人を道連れに行方を眩ませるなど言語道断だ。
でも、どちらの人物をも知ってれば、あながちあり得なくもないように思えて、怒るに怒れない気にさせられるのも確かなのだ。
そう考えて気づく。
『天満堂』の女主人、彼女とは何かと予期せぬ場所で行き会った記憶があるが、殊に院内で出会う機会が多かったのではなかったろうか。
あれは元々、別な人の見舞いに来ていたせいではないのか。
今頃彼女は、どんな気持ちで居るのだろう。
気を揉んでいるのか、トキワさんと同じ推理に辿り着いて苦笑いしているのか。
今、この空の下、誰が生き、誰が死に、どんな思いを抱いているのか、どんな思いを遺しているのか。
我関せずと、空はただ広い。
春霞に茫洋とした水色に染まるにはまだ早く、澄んだ青色で広がっているばかりだ。
そこを、鳥が渡ってゆく。
僅かに梅の香りが鼻腔をくすぐった。
哥さんの残した梅盆栽が、遅ればせながら柔らかく蕾を解き、咲き始めたせいだ。
転居のために運ぶ際、繊細な竹細工が壊れてしまって、今は庭の片隅に植えられている。
ふと情景が浮かんだ。
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