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対人恐怖の気のあった彼は、なんであれ、他人からは、かなりの距離を置くことを良しとしてきたからだ。
自分だって、一度はラチルを失い、殺された恨みから、暴虐の波動で幻魔世界を更なる殺戮と狂気にまみれさせた。怒りを発したことで、それはドナーに人を想う気持ちを発することも出来るようになっていたのである。
なんということだろうか。
”禍福はあざなえる縄の如し”というが光と闇もまた、そのような関係にあるのではないだろうか。
闇にあっても絶望せず、光にあっても慢心せず。時に、それにのめりこむこともあれど、それから離れ客観的に評価する、自由な心を持つ。
正直、それが行き過ぎれば、心の病となり、復帰が困難になってしまう場合もあるに違いない。だからこそ、まだ復帰が容易な、柔軟な心の段階で反省、自己チェックを習慣化することで、その柔軟な人としての健全さを維持する。そして、その心のバランスを健全にすることで、その心の行う判断をベストの状態に保つことで、それによる行動の失敗を最小限にし、性向の可能性を最大限にする。それこそが、幸せへの王道というものなのではないだろうか。
あらためて・・自分に直接利害が無ければ、許すことは比較的容易というのは人情なのだろう。
ラチルの過去を知らない市枝だからこそ、彼女はその少女を抱けたのではないだろうか。暗黒教団の幹部になるというのは、並大抵のことではないはずなのだから。たとえ、あのウサギ人間ラチルが彼女のアバターだったとしても、である。
そうした想像は、難くないが、実感は難しい。
しかし、それでいいのではないだろうか。
だからこそ、市枝の抱擁は、あくまでも優しく、暖かく、そのレイチェルという少女の心の中の刃が、ほぐされていくのが、わかる。
子供だましの茶番ということ無かれ。レイチェルもまた、そうした茶番でもいい、それを契機として自分を変えようとしたこと、それが大事なのだ。
そうだ、自分の心の中の刃を軟化させることができるのも、自分しかないのだ。
繰り返すが、他人はそのきっかけを与えるに過ぎないのである。自分を変えられるのは自分だけなのだ。
ふぉああああ・・・
光が、ラチルが輝く。それがドナーも取り込んだ。そして・・
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