となりあう缶の秘密

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 一晩泊まったら何万円もするような、そのような大きなホテルに入ったことはなかったし、明らかに泊り客用のショップなのだから、関係のない人間が入って行くのは気が咎める。ひきかえそうかとどこかで思ったけれども、時間もわからなくなるような穏やかな照明の中にひっそりと並んでいる小さなショップはおとぎの国のようにかわいらしく、人通りがないのをいいことにふらふらと歩き回ってしまう。  ふわふわしたガウンやスリッパ、見慣れないドレスやスカーフやアクセサリーは、ホテルに泊まった人が着替えや部屋着に使うのかもしれない。いろいろな生活をしている人たちがいるものだよな、と思う。「違う生活」だよね、と思って、でも、では、わたしの生活って何だっけと、その図もよく思い浮かばない。  会社に行って、営業に行って、会社で座って、会社から帰って、食事して片付けてシャワーを浴びて寝て。それは、ホテルで退屈して、うさぎみたいなスリッパを買って、大きなアクセサリーをつけて、ぜいたくな食事の席について、というのが、あまりうきうきしない絵空事に思えるのと同じくらい、絵空事に思える。でもきっとそう、どこにいても自分はそうなのだということかもしれない。  誰もいないので、バーチャル散歩くらいのつもりで油断して歩き回っていたら、二度目に回って同じ小物に目が留まって止まってしまった店先で、店員さんがにこやかに出て来てしまった。 「すてきですね、ラベンダーやスミレの花の模様が」 できるだけ挙動不審にならないように、落ち着いた調子を作って言ってみる。  大丈夫、営業帰りでスーツを着ているから、浮浪者には見えないだろう、と自分を見回す。   「こちらのサッシェなどいかがですか?」 女性がきれいな封筒のようなサッシェを手に取って勧めてくれる。  その手を思わず遠ざけながらも、そのラベンダーの花が描かれた袋を横眼で見ると、千円札でおつりが来る値段の値札が見えて、思わず目が大きくなってしまう。
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