秘密の居場所

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 たいていの彼の話は、「目覚ましをかけ忘れて寝坊しかけた」だとか、「年下の部下への指導で上司に呼び出された」なんて、一日にした失敗談から始まる。毎日毎日、よくもまあこんなに失敗できるなと感心するくらい、彼の話は長い。滑り台を照らしていた夕焼けが遠く沈み、ほんのりと暗闇が彼の横顔を包む頃まで彼の話は続く。飽き性な私がそれでも彼の話をおとなしく聞いているのは、彼が一通り今日あった出来事を話し終わった後にする、明日の物語を聞くのが好きだからだ。  「明日はさ、きっと朝、途中のバス停で足の悪いお婆さんが乗ってくるんだ。満員バスで、座っている人はそのお婆さんを見えないふりをするんだけど、僕だけは気づく。勇気を出して、席を譲る。周りの人たちは、『存在しなかったお婆さんに気付いたふり』とか、『席を譲る若者に感心するふり』を一瞬する。」  私の脳裏に、勇気を振り絞り老婆に声をかける彼と、周囲の浅ましい大人たちの姿が浮かぶ。浅ましい、大人たち。でもきっと大半の人間はそんな浅ましさと、ちょっぴりの良心で構成されていて、ヒーローになれるかなんて、その良心を外に現す勇気があるかで決まるのだ。目の前の彼は、勇気ある人間だろうか?なんて、頼りない横顔をそっと観察する私に気付かないまま彼は話を続ける。 「僕はそんな乗客たちを見下しながら、バスを降りて会社に向かう。部屋の扉を開けたら、いつもは僕をいないかのように扱う上司たちが、全員一斉に僕に注目するんだ。さぁ、なんでだと思う?」     
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