秘密の居場所

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 私の頭を柔らかく撫でながら彼は言う。少し寂しそうな、でも世界で一番優しい声音で。私はこの瞬間があまりに心地よく、彼に身を任せてそっと目を閉じる。…きっと彼は明日、満員バスで席を譲るだろう。なけなしの勇気を振り絞って。例えその行動によって彼の日常が1mmも変わらなかったとしても、ほんの少し、誰も気づかないくらいちょっぴりでも、世界が優しくなってくれるといいと思う。そんな私の想いが、少しでも彼に届いたらいいのにと、心から思う。  「さて、今日はもう帰ろうかな」  しばらくすると、そう言って彼は膝の上の私を再び抱きかかえ、そっと地面に下した。いつの間にかあたりは完全に暗闇に包まれ、頼りない街灯のみがほのかに私たちを照らしている。  「また明日も来るから。」  惜しむように彼は鞄を手に取ると、私の頭を最後に一撫でする。一日の中の特別な時間が終わりを迎える。私は彼の名前を知らない。住所も知らない。彼がこれからどこに帰るのかも、帰る場所があるのかも。そしてもちろん彼も私のことを何も知らない。私に家族はいるのか、私が昼間どこで何をしているのか、私が明日もここに来るのかさえも。…だって、私たちは言葉を交わす術を持たないのだから。  小さくなっていく彼の背中を見送りながら、堪らなく寂しくなって、私は「にゃあ。」と小さく鳴いた。  
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