4人が本棚に入れています
本棚に追加
『 Crazy for you. 』by.kyomoto
【かわりのことば 『憎らしいほど憧れる』】
沈とした舞台の上で、あなたはスタインウェイの前にゆっくり座った。
眩しいライトの中、伸びたあなたの背筋に緊張が張りついているのがわかる。私もそうだ。たくさんの経験を重ねても、最初の一音が上手く出せるか不安なものだ。
白と黒の鍵盤の前で今、あなたは何を思うのだろう。
演奏の成功か、ホールに満ちた期待という名の重圧か、それともこれから奏でるショパンへの敬愛か。いっそ失敗すれば良いのに、と思ったとたん、あなたが微笑んだ。
張りつめた背から緊張が消える。鍵盤の上に両手がそっと乗せられ、二つの白鍵が押し下げられる。澄んだ二音が歌い出し、心が震えた。
バラード第一番が、静かにホールへ拡がっていく。深い森の奥底から朝靄の空へ昇っていくような、切なくも穏やかな調べは、いつも薄い木漏れ陽の煌めきを纏っている。
ああ憎らしい。
またあなたの音に魅せられてしまう。
私がどれだけ努力しても得られなかった透明な響きに、情けないほど憧れてしまう。
目を閉じればそこは、あなたの奏でる儚い物語の中。たった十分で構わない。しがらみも何もかもすべて忘れて、ただあなたの物語に溺れ、息絶えてしまいたい。
「ようこそ、バラードの迷い森へ」――あなたの囁きが聞こえた気がした。
(※バラード…フランス語で『物語』のこと)
〈君に首ったけ〉
by.京元様
https://estar.jp/users/42705318
最初のコメントを投稿しよう!