▼五話 居酒屋めんたい卵焼き

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▼五話 居酒屋めんたい卵焼き

『俺たちは、その生まれ変わりかもしれねえんだよ』  衝撃の事実を聞かされた翌朝。  神様のことは神様に、ということで……事の次第を桃の神様であるオオカムヅミこと、オオちゃんに確認するべく、私は那岐さんと共に黄泉喫茶に来ていた。 「那岐はイザナギの魂、灯はイザナミの魂を持って転生しておる。そのときの魂の記憶をおぬしらは夢で見ていたということじゃ」  オオちゃんは初めから予想していたのか、さほど驚いた様子もなく平然と私と那岐さんが神様の生まれ変わりである事実を肯定する。  思考がいよいよ追いつかなくなって固まっていると、私の顔の前で水月くんが意識確認するように手を振った。 「じゃあ、那岐が探してた女の子って灯ちゃんだったの?」  そういえば、那岐さんが誰かを探していると水月くんは前々から言っていた。  オオちゃんも出会ってすぐに『おぬし、ときどき変な夢を見たりしないか?』と誰にも話したことがない夢について見抜いていたし、那岐さんは『やっぱりな、会ったことがあるような気がしてた』と、私を知っているような口ぶりをしていた。  幽霊やオオちゃんという神様とほぼ毎日話をしているので、今さらその存在を否定したりはしないが、これまで普通の人間として生きてきた自分の前世が神様だったなんて言われても誰が信じられようか。 「百歩譲って、いや千歩譲って、私が神様の生まれ変わりだったとして。今の私は人であることには変わりないんだよね?」 身を切られるような悲しみと腹の底からこみ上げてくるような怒り、闇の中に放り込まれたような絶望感。 そのどれもが鮮明に感じられるイザナミの夢を思い出して恐ろしくなった私は、自分の身体を両腕で抱きしめながらオオちゃんに問う。 「確かに那岐も灯も人じゃが、死者をこの喫茶店に呼び寄せ、魂を生前の状態に具現化したり、灯に至っては死者の声を聴いたり、気配を感じたりできる。これは魂に宿った神の力じゃな」  それを聞いた陽太くんが珍しく瞳を生き生きとさせる。 「急に神様パワーが目覚めたってこと?」 「もともと備わってたんじゃが、灯は出会った当初、ほとんど力に目覚めてなかった。それがイザナギとイザナミにゆかりのあるこの東出雲町に来たことや黄泉喫茶で那岐の力に触れたことで徐々に力を取り戻したんじゃ」  そう言われてみると、那岐さんみたいにレシピに触れただけでその人の思い出の料理にまつわる記憶が見えたり、死者の声を聴いたりできるようになったのは黄泉喫茶に来てからだ。  あのイザナミの魂の記憶と呼ばれる夢も、那岐さんと出会ってこの地に住むようになってから鮮明になっている。  思わず那岐さんを見上げると、向こうも視線に気づいたのか目が合った。  この人と前世で夫婦だったんだ……。  そう考えた瞬間に心臓が大きく跳ね、全身にわき上がるむず痒さに耐えていると那岐さんは「俺には死者の声が聴こえない。それはなんでだ」と厳しい顔つきでオオちゃんを問い詰める。  那岐さんの言葉はどこか深刻そうで、私は胸が不安に疼くのを感じた。 「灯はイザナミの生まれ変わりなのじゃぞ? 黄泉の神でもある灯は、そもそも死者と波長が合いやすい」  オオちゃんはそう言うけれど、死者の声を聴いたのは昨日が始めてだ。たまたま偶然、聞こえただけではないだろうか。 「そういえば昨日のお客さん……美紀さんの声を初めて聞いたとき、すごく頭が痛かったの。あれって、なんでなのかな?」 「灯が生前の姿に具現化していない霊と接触したのは昨日が初めてじゃ。一度目に靄の霊と話したとき、頭痛がしたのは霊との波長を合わせる過程で生じた摩擦だろうの」  それに閃いた、といった様子で水月くんが両手を叩く。 「ラジオの周波数を合わせるみたいにさ、幽霊と同調するとき、ハウリングが起こったってこと?」  ――ああ、なんてわかりやすい比喩表現。  つまり、最初は幽霊と波長を合わせるのに苦戦してハウリングを起こすけれど、一度調整ができれば、あとは頭痛なく声が聴けるようだ。  私のことなのにどこか他人事のように自分の身に起きた変化を解釈していたとき、お店の入り口の方から「なんだここは!?」と男性の悲鳴が聞こえてくる。  皆の視線が扉に向くと、そこにはスーツに身を包んでいる五十歳くらいの白髪混じりの男性が立っている。  ふいにハンカチでしきりに額の汗を拭い、店内に視線を巡らせている男性と目が合った。 同時に「あ」と声を漏らし、男性は私のところへ駆け寄ってくる。 さながらイノシシの如く突進してきたので、私がぎょっとしていると――。 「止まれ、それ以上近づくな」  私の目の間に立った猛獣使い――那岐さんが男性を諫める。  守ってくれたのかな?   夫婦だったと聞かされたせいか、こうしたちょっとした優しさに胸が騒ぐから困る。  密かにときめいている私の前では、男性が那岐さんの凶悪面と真っ向から対面してしまったために凍りついていた。 「誰か、解凍してあげなよ」  なら、あなたがしてあげなよ、と突っ込みたくなるほど他人事な陽太くんに対し、黄泉喫茶の中でいちばんの常識人である水月くんが男性の肩を叩く。 「お客さん、大丈夫ですか? いろいろ……いろいろ、驚かれたと思いますが、まずは席についてお冷……いや、ここはホットミルクでもサービスしますので、座りましょうか」  水月くんの海より深い気遣いに男性はほっと胸を撫で下し、促されるままに席につく。 私はホットミルクを準備すると、男性に差し出した。 「どうぞ」 「ああ、すみません」  男性はペコペコと頭を下げながら、ホットミルクを水を飲む勢いで口の中に流し込み、秒で吹きだした。  そのホットミルクはこれからメニューの説明をしようとしていた水月くんの顔面を直撃し、男性と私は言葉を失う。  沈黙が訪れ、店内にはぽたぽたと水月くんの髪の先から水滴がこぼれ落ちる音だけが響いており、はっと我に返った私は「だ、大丈夫?」と声をかけた。 「うん、大丈夫。ちょっと驚いたけど」  ははは、と苦笑いしている水月くんの身体がグラリと揺れる。振り返ると陽太くんが水月くんの腕を引っ張っていた。 「汚い、早く洗うよ」 「陽太、俺に触るとホットミルクがつくよ。結構な勢いで飛び散ったからね」 「つべこべ言わず、シャワー浴びて」  陽太くんに連れ去られていく水月くんの手から、私はメニューを取る。 「説明は私がしとくから、着替えて来て?」 「うん、お願いします~」  陽太くんに引きずられるようにしてバックヤードに消えた水月くんの代わりに、私はメニューの説明を始めた。 「あなたがここへ来たのは、会いたいけど会えない人に会うためですね?」 「……っ、はい……」 「このメニューを持って、その人との思い出の料理を思い浮かべてください。そうすれば、あなたの会いたい人に会えますから」  男性は「わかりました」と言ってメニューを受け取ったのだが、その手が小刻みに震えている。先ほどから落ち着きがないし、なんだか様子がおかしい。  私は首を傾げながら、光るメニューを眺める。やがて光がおさまり、男性からメニューを受け取ると中を確認する。 「居酒屋めんたい卵焼き……」  誰と食べに行く料理だろう。会社の同僚?  想像を巡らせつつ、那岐さんのところへ行くとふたりでメニュー名に指を乗せる。 その瞬間、ビールジョッキがぶつかる音や上機嫌な声が大合唱のように耳に届き、景色が洋風の喫茶店から座敷のある和風な居酒屋へと変わった。 『はいよ、生ふたつ!』  店主の快活な声に導かれるようにカウンター席に視線を向ければ、あの男性の姿があったのだが、喫茶店に来たときよりもふた回りほど若く見える。 『時枝(ときえだ)、お前はもう少しうまくやらないと部長に目をつけられるぞ』 『本木(もとき)先輩、目ならもうつけられてますよ』  男性――本木さんに答えたのは、隣に座っている眼鏡をかけた三十代くらいの女性だ。  長い黒髪を団子にしてまとめ、しわひとつないスーツをきっちり着こなしている。まさにキャリアウーマン、という言葉がしっくりくる人だった。  女性――時枝さんはやけくそに焼き鳥に噛みついて、串を勢いよく引き抜く。それを見ながら、本木さんは笑顔を引き攣らせた。 『焼き鳥が骨付き肉に見えてきたぞ、俺は……』 『だいたい、余計なことするなってなによ。あたしはハウスクリーニングの会社で実際に清掃員として働いて、本部の運営側に回ったの。それに対して部長は、ハウスクリーニングの知識はゼロ』  本木さんの発言は完全にスルーして、弾丸のように文句を吐いた時枝さんは一旦ビールを飲んでさらに続ける。 『最近クレームが多いから、作業前にお客様とあらかじめシンクとか、お風呂の鏡とか、傷がないかチェックするよう指摘したら、時枝さんはスタッフの腕を疑ってるんですか? ですって。違うわよ、スタッフを守るためにお客様への事前の説明が大事なのに』  相当鬱憤が溜まっていたのか、時枝さんのお酒を飲むピッチは早かった。  さすがに心配になったのか、本木さんは時枝さんの手からビールジョッキを奪い取る。 『明日も仕事だろ。歳をとると簡単に酒が抜けなくなるんだから、ほどほどにしろよ』 『でも先輩、私、間違ってないですよね?』 『ああ、時枝は正しい。けど、出る杭は打たれる。俺たち下っ端が意見するのが気に食わないんだ』  宥めるような本木さんの言い方に時枝さんは眉尻を吊り上げて、『本木先輩はそれでいいんですか!?』と怒る。 『頑張らなくていいとか、私の意見がスタッフの士気を下げて害になってるとか、平気で言うんですよ。おかしいのは部長なのに、言いなりになるんですか?』 『それが組織に属するってことなんだよ』 『なにそれ……本木さんは部長が怖いから、逃げてるだけじゃないですか』  その言葉に傷ついたような顔をした本木さんは、気を取り直すように店主になにかを注文した。少しして、『お待ちどうさま!』とテーブルに卵焼きが置かれ、ふたりの間に漂う気まずい雰囲気が吹き飛ぶ。 『この居酒屋のめんたい卵焼き、大好物なんですよね!』  時枝さんの表情がパッと輝き、本木さんが安堵の息をつくのがわかった。 『お前はよく頑張ってるよ。腐らず、そのままの時枝のスタイルでぶつかっていけばいい』 『本木さん……はい、ありがとうございます』  ふたりは喧嘩した手前、少し恥ずかしそうに笑い合って、ひとつの皿から分厚いめんたい卵焼きを食べる。  理想の上司と部下の関係だな、と思っていると過去の思い出は煙のように消えて、私は喫茶店に戻ってきていた。 「本木さんは時枝さんに会いたいんですね」  本木さんと思い出の料理を食べた相手――時枝さんは恐らく亡くなっているのだろう。それを肯定するように、本木さんの肩はびくりと跳ねる。  それに少し、違和感を覚えた。ここは目を伏せて、悲しむところではないだろうか。彼の反応ではまるで、時枝さんに会いたくないみたいだ。  考えすぎ?と首を捻りながら、私は手を洗って卵を四つと辛子明太子を二分の一腹分、冷蔵庫から取り出した。  それから焼きのり一枚に調味料のだしや砂糖、酒を準備する。 「お前、なんで変な顔してんだよ」  那岐さんはボールの中で卵を溶きほぐし、そこへだしを小さじ二分の一、水を四分の一カップ、砂糖を大さじ一杯、酒を小さじ二杯入れて混ぜ合わせながら言った。 「あの……本木さん、様子がおかしくないですか?」  私は焼きのりで明太子を包み、フライパンに油を敷いて中火で温める。那岐さんはフライパンが十分に熱を持ったのを確認すると、卵液を少し流し込んだ。 「おかしいのは初めからだ。挙動が犯罪者だな」 「それは言い過ぎですけど、本木さんは時枝さんに会うのが嫌なんじゃないかって、思うんです」  那岐さんが敷いた卵に火が入ると、私はのりで巻いた明太子をその中央に置いた。那岐さんはのりと明太子を包むように残りの卵液を数回に分けて流し込み、分厚くしていく。 「嫌というより……恐れだろ、あれは」 「恐れ……?」 「死者に会いに来るヤツの中には謝りたい、許されたいって人間もいるからな。必ずしも、お前みたいに純粋に妹に会いたいヤツばかりじゃないってことだよ」  那岐さんは出来上がっためんたい卵焼きをまな板の上で切り、卵の黄金色が際立つ黒皿に盛った。  そこへ頭も洗って、予備の制服に着替え終わった水月くんが戻ってくる。  この喫茶店にはどういう仕組みになっているのかは謎だが、バックヤードの奥に生活スペースがあり、お風呂もトイレも寝床も揃っているのだ。 「じゃ、俺が運ぶね」 「兄さんは引っ込んでて、俺がやる。早く髪乾かせば」    珍しく自分から手伝いを申し出た陽太くんは、私がトレイに載せた二皿の卵焼きを運ぶ。  なんだかんだ、お兄さんが好きなんだな。  温かい気持ちで見守っていると陽太くんが本木さんの前にめんたい卵焼きを置き、時枝さんの分は手に持ったまま説明を始める。 「絶対に死者に出された料理は食べないで。あと、一時間以内に食べ終えること。もし破れば、きみも呼び出された死者も永遠にこの喫茶店に囚われることになるよ」 「わ、わかりました……」 「じゃあ、覚悟して」  淡々と注意事項を述べた陽太くんが卵焼きを空席の前に置いた途端、そこにはスーツ姿の時枝さんが現れた。 「本当に……時枝、なのか?」 「本木、先輩……?」  ふたりは状況を飲み込めないのか、黙ったまま見つめ合う。そこから感動の再会に涙するかと思いきや、時枝さんは勢いよく立ち上がった。 「なんなの!? ここは……」   取り乱している時枝さんに、頭を乾かし終えた水月くんがバックヤードの入り口から「落ち着いて、ここは死者を呼び出せる喫茶店だよ」と補足しながら店内に戻ってくる。 「呼び出す……まさか、本木先輩が私を?」  時枝さんの視線が本木さんに移った。  だが、本木さんはなにも言えずに俯いており、代わりに那岐さんが「ああ、そうだ」と答える。   事実を聞かされた時枝さんは、物凄い剣幕で本木さんを睨みつけた。 「今さら、私になんの用よ! 裏切り者、死んだあとまで私を苦しめる気!?」  発狂する時枝さんは、明らかな敵意を本木さんに向けている。  あんなに仲がよさそうで、傍から見ても理想の上司と部下に見えたのに、このふたりになにがあったの?  怒りが収まらない時枝さんはダンッと両の拳をテーブルに叩き付けて、本木さんのほうへ身を乗り出す。 『まあ、いいわ。こうして蘇ったなら、あいつらに復讐してやる。同じ苦しみを味合わせて、私と同じ目に遭わせてやる!』  呪詛のような言葉を吐いて、時枝さんは喫茶店の扉へと走った。とっさのことで動けずにいると、キッチンにいた那岐さんの怒号が響く。 「そいつを外に出すな!」 「止まるんじゃ!」  同じように叫んだオオちゃんが時枝さんに手を伸ばすも、すんでのところで届かず、時枝さんは黄泉喫茶の外へ出て行ってしまった。 「まずいよ! 一時間以内に時枝さんを見つけないと、本木さんも時枝さんも喫茶店から出られなくなる……っ」  水月くんの顔から、いつもの笑顔が消えている。それが事態の深刻さを物語っていて、私は胸の前で両手を握りしめた。 「なにが、どうなってるの……?」  嵐のような出来事に困惑しつつ、全員の視線が本木さんに集中する。 項垂れていた本木さんは観念したように顔を上げて、置き去りにされためんたい卵後焼きを切なげに見つめた。 「時枝は……俺と同じハウスクリーニングの会社で働いていて、仕事のできるヤツでした。本部で管理業務に移ってからも、現場経験者ってこともあって意見も適格だし、社長からの期待も厚かった。ただ、それをよく思わなかったのが部長です」  本木さんの記憶に触れたとき、時枝さんは部長に対する不満をぶちまけていた。  作業前にお客様に汚れの度合いや掃除するものの素材によっては、傷がつくリスクがあると確認や説明をする。そんな当然の意見を部長は卑屈にとって、スタッフの腕を信じてないのかと時枝さんを悪者に仕立てあげようとしていた。 「なにかと難癖つけられて、それでも最初は時枝も戦っていたんですが……。部長が根回して、あいつは社内で孤立していきました。限界だったんだと思います。時枝は俺に『私は間違ってますか?』とまた聞いてきたんです。そのとき、俺は『そうだな』って肯定してしまった」  時枝さんはきっと、本木さんが居酒屋でかけた『時枝は正しい』の言葉をまた聞きたかったのではないか。それがあれば、味方がひとりでもいれば、頑張れたはずだ。  でも、本木さんは限界だった彼女を突き放した。それは時枝さんにとって、崖から落ちるに匹敵する絶望だったのではないか。 「なぜ、時枝さんは悪くないって言ってあげなかったんですか?」  聞かずにはいられなくて問いかけてみれば、私は少し本木さんを責めるような口調になってしまう。  けれど、本木さんはすべて自分に非があるというように気を悪くした様子もなく答える。 「部長と戦うのがどれほど精神をすり減らすことなのか知っていながら、俺は『腐らず、そのままの時枝のスタイルでぶつかっていけばいい』なんて無責任に背中を押したんです。その結果、あいつは孤立した。俺のせいだって、思いました」  そうか、本木さんの『そうだな』は自分の過ちを肯定するものだったのだ。 うまく立ち回れ、ともっと強く言っていれば時枝さんが苦しむこともなかったのに、と自分を責めていたのかもしれない。 「でも、その言葉もきっと間違いだった。俺はなんて言ってやればよかったんでしょうか。どうしたら、あいつは自殺せずにすんだんだ……っ」  自殺、の二文字が重く胸にのしかかる。 本木さんがこの喫茶店に来てからずっと落ち着かなかったのは、時枝さんに会っても責められることをなんとなく想像していたからだとわかった。 「俺が時枝の質問に『そうだな』と答えた次の日、時枝は睡眠薬を大量に摂取して、自宅のドアノブに紐を括りつけ、首を吊っていたそうです」  今なら時枝さんの『裏切り者』『復讐してやる』の意味がわかる。時枝さんは信じていた本木さんに裏切られ、自分を陥れた部長や同僚を苦しめるために喫茶店を出て行ったのだ。 「時枝にかけた言葉が間違ってたってわかったなら、ここでやり直せ。次にかける言葉をしっかり考えろ。俺たちが戻るまでにな」  那岐さんはそう言ってエプロンを脱ぐと、私に「お前も着替えてこい」と顎をしゃくりバックヤードを指す。一緒に探しに行くぞ、という意味なのだろう。  私は私服のワンピースに着替えると日焼け対策の麦わら帽子を被って、那岐さんと喫茶店の扉の前に立つ。 皆に見送られながら外へ出る間際、本木さんの「時枝をよろしくお願いします」という声が聞こえて、私はいっそう強く一歩を踏み出した。  東出雲町の揖屋の町の中を走っていると、どこからか悲鳴が聞こえてきた。私は那岐さんと顔を見合わせて、声のしたほうへ駆け出す。  すると、布団屋の扉のガラスがすべて割れており、店内の布団は棚から飛び出してしっちゃかめっちゃかになっている。 他にも悲鳴やガラスの割れる音があちこちのお店や家から飛び交い、嫌な予感がした。 「那岐さん、これって……」  隣を見上げれば、那岐さんは苦渋の面持ちで舌打ちをした。 「間違いないな。時枝の恨みつらみが周囲に影響を及ぼしてやがる。それに霊の負の感情は物だけじゃなく、人間にも害がある」  那岐さんが私の背後に視線を向け、すぐに手首を引いてきた。私は「わっ」と声をあげながら前につんのめるようにして、那岐さんの胸に飛び込む。 抱き寄せられたのだと気づいた瞬間、頭上でブンッと風を切る音がした。 恐る恐る振り返ると、デッキブラシを刀のように構えている男性が私たちを睨みつけている。 「え、デッキブラシ侍……?」 「ふざけてる場合か、走るぞ」 那岐さんに手を引かれるままにその場から走り出すと、正気を失っている様子の町民が傘やらデッキブラシやらを武器にして追いかけてくる。 「時枝の怒りに同調して、人間も怒りっぽくなってるのか」 「ゾンビ映画を思い出しますね。早いところ、時枝さんを見つけないと――」 走りながら那岐さんにそう答えたとき、頭の中でキーンと音が響き、強烈な頭痛に襲われる。 私は足を止めてその場でしゃがみ込み、両手で頭を押さえた。 「……っ、痛いっ」 「おい、どうした?」 地面に膝をついて顔を覗き込んできた那岐さんだったが、狂暴化した町民の足音が近づいてくるのに気づき、私の脇の下に腕を入れて立たせた。 「少しだけ耐えろ」 身体を半分抱えられるようにして、私たちは路地に隠れる。 私の肩に手を置き、改めて顔色を確認してくる那岐さんに「急に頭痛がして……」と説明した。 「おい、それって時枝と同調する際に発生したハウリングじゃないのか? だとしたら、お前なら時枝の居場所がわかるかもしれない。なにか、聞こえないか?」 「いいえ、聞こえませんけど……」 なんとなく、モヤモヤしたよくないものを黄泉喫茶の方角から感じる。 「黄泉喫茶の方向が、こう……胸がざわつく感じがします」 「黄泉喫茶に戻ったのか……とりあえず、時間がない。行ってみるぞ」 那岐さんはこちらに背を向けてしゃがみ込み、私を振り返って「乗れ」と言った。もしかしなくても、体調が悪い私をおぶろうとしてくれているのだろう。 「でも、さすがにいい歳して、おんぶはない……」 「つべこべ言うな、さっさとしろ」 だがしかし、那岐さんの凶悪犯面に押し切られてしまい、その背に乗せてもらう。 那岐さんは人ひとり抱えているのに身軽に走り、あっという間に黄泉平坂の入口まで戻ってきた。 私は黄泉平坂の入り口で下してもらい、改めてあの気持ち悪い感覚に集中する。 あ、まただ……。 私は導かれるようにして歩き出した。奇妙な感覚に近づくにつれて頭痛が強くなり、夏なのに全身に冷や汗をかく。何度も通った黄泉喫茶に続く道を進んでいたとき、ずるっと足が滑って身体が右へ傾く。 「――灯!」 切羽詰まった那岐さんの叫び声と、バッシャーンッという大きな水しぶきの音と、どちらが早く耳に届いたのだろうか。私の身体は仄暗い沼の底へ沈んでいき、焦って手足をばたつかせる。 この沼、こんなに深かったっけ? バクバクと激しく鳴る心臓に息苦しさを覚えながら、目を開ける。 すると、沼底から伸びる長い髪の毛のようなものが私の身体に巻き付いていた。 ――なにこれ!? 驚いて口を開けると、空気がぶわっとこぼれてしまう。貴重な酸素を失ってパニックに陥りかけたとき、耳に届く声――。 『頑張らなくていい、余計なことするな、お前が害……。みんな、私を責めるのはどうして? 正しいと思って言ってたこと、全部否定される……どうして……』 胸に流れ込んでくるのは怒りや悲しみ、孤独感だった。 押し潰されそう……。 声の主は間違いなく時枝さんだろう。 時枝さんは沼の底で黒い靄になって、私を絡めとろうとしている。 だが、不思議と恐怖はない。なんとなく、彼女は膝を抱えるようにして苦しみに耐えているように見えた。 一生懸命働いている人に余計な意見をするなとか、頑張ろうとしている人にかける言葉ではない。 会社のために正しいことをしているはずなのに、周囲から責められる疑問や追い詰められた憎しみ。時枝さんの復讐したい気持ちもわかる。 だけど、ずっとこんな暗くて寒い場所にいるなんてダメだよ。ひとりにならないで。あなたを見てくれていた人がちゃんといたじゃない。 私は本木さんの後悔の滲んだ表情を思い出しながら、心の中で時枝さんに語りかける。 帰ろう。帰ろう、時枝さん――。 私が恐れずに黒い靄に右手を伸ばすのと同時に、頭上から伸びてきた手が私の左手を掴んで引き上げた。 身体が地上に向かって勢いよく浮き、私はぶはっと水面から顔を出す。肺いっぱいに酸素を取り込み、顔を上げた瞬間――。 「――こんの、バカが!」 濡れるのも構わず首に腕が回されて、心臓が止まりそうになった。目を瞬かせれば、那岐さんの黒髪がときどき視界に入り込む。 重なった頬から伝わってくる体温に顔が熱くなるのを感じていると、ふいに那岐さんに抱きしめられていたことを思い出した。 「す、すみません……心配かけました……よね?」 「当たり前だろ! 大して深くもない沼なのに、全然顔出さねえから……」 いつもより罵倒が弱々しい那岐さんに言われて、はっとする。さっきは沼底が果てしなく深く見えたのに、今はちゃんと足がつくのだ。 「那岐さん、おかしいです。ここ、とても足がつくような浅い沼じゃなかった。それに私がこの沼に落ちたとき、ずっとずっと底のほうに時枝さんがいたんです」 「なんだと……いや、どうやら本当らしいな」 私の背後を見た那岐さんの視線を追うように振り向けば、靄――時枝さんがいる。 那岐さんは時枝さんから目を逸らさずに、私を地上に引き上げた。 私は地べたに座り、那岐さんに身体を支えられながら時枝さんに話しかける。 「時枝さん、本木さんはあなたの頑張りを認めていました。でも、自分がアドバイスしたせいで、あなたがより孤立してしまったんじゃないかと自分を責めてもいた」 『嘘よ』 靄はかぶりを振るように、大きく左右に揺れる。 「嘘じゃない。あなたの『私は間違ってますか?』の問いかけに『そうだな』って言ったのも、あなた自身を否定したんじゃなくて、あなたにつらい道を歩ませてしまったことに対する『そうだな』だったんです」 時枝さんと本木さんのすれ違った思いを繋げるために、絶対に時枝さんを連れ帰ろう。その一心で、私は声をかけ続けた。 「言葉にはいろんな意味や思いが込められてるの。時枝さんが汲み取ったのは言葉の表面上だけ。そこにどんな気持ちが込められていたか、ちゃんと向き合って知ってほしい」 『本木さん……』 「あなたがどんなに人から敬遠されても、助けを求めた人でしょう? もう一度、信じてあげて」 時枝さんは迷っている様子だったが、静かにこちらに近づいてきて地上に上がった。 「きっと、もう大丈夫だと思います」 私は那岐さんを見上げて笑うと、水を吸ったワンピースは重かったが立ち上がる。 「そうみたいだな、敵意が感じられない。お前の言葉のおかげだろ」 納得したように腰を上げた那岐さんと共に、私は足早に喫茶店を目指した。 ときどき後ろを振り返って時枝さんがついてきているのを確認しつつ、黄泉喫茶に到着すると時枝さんは靄から人の姿に戻る。 「残り時間一〇分、ぎりぎりセーフだね!」 出迎えてくれた水月くんがほっとしたように表情を緩めて、オオちゃんや陽太くんと顔を見合わせる。 オオちゃんは複雑な顔をして喫茶店の入口に立ちつくす時枝さんのスーツの袖を引き、「座るんじゃ」と本木さんの前の席に促した。 「ふたりはこれ、とりあえず拭けば?」 陽太くんがびしょ濡れの私たちにタオルを差し出してくれる。 私は「ありがとう」と陽太くんからタオルを受け取りながら、残された時間が少ないのにも関わらず黙り込んでいるふたりを見つめた。 一分の沈黙が数時間に感じられるほど張り詰める空気の中、時枝さんは耐え切れずといった様子で嗚咽をもらす。 「……本木さん、あのとき……どうして、私は間違ってないって言ってくれなかったんですか……っ」 時枝さんの両目に涙が盛り上がり、ぽろっとこぼれ落ちた。 それを見た本木さんは自分が泣いているみたいに傷ついた顔をして、震える息を長く長く吐き出す。 「……『そのままの時枝のスタイルでぶつかっていけばいい』なんて、無責任な言葉をかけるべきじゃなかった。あのとき、お前が孤立しないようにもっと……なにか、できたはずだって、そう思ったら……間違ってなかったなんて言えなかったんだよ……っ」 ふたりの涙声が店内に寂しく響く。ふたりの間にあるのは険悪な雰囲気ではなく、底の見えない沼のような後悔と悲しみだ。 お互いに口を開いては閉じを繰り返し、テーブルの上で拳を握りしめた本木さんは意を決したように時枝さんを見据える。 「助けてやれなくて、すまなかった。一生懸命な人間が損をする会社で、すまなかった。その中で……戦ってる時枝を尊敬してた。勇気と度胸のある人だって……」 「……っ、本当は……本当は、先輩が話を聞いてくれて、助けられてました。それなのに、さっきは責めてすみません」 「いや、悪いのは俺だ。あのときは言ってやれなかったが、余計なことなんてないし、誰かの歩幅に合わせる時枝は時枝らしくない。そのままでいいんだ」 潤んだ本木さんの瞳を見た時枝さんは目を見張ったあと、ゆっくりと笑顔を浮かべた。 「先輩なら……そう言ってくれると思ってました。ありがとうございます……私の味方でいてくれて」 「俺のほうこそ、大事なことを教えてくれたのはいつも時枝だった。これからは時枝みたいに、権力に負けずに生きようと思う」 それを聞いた時枝さんは、首を横に振った。 「本木さんは私じゃないんですから、私みたいになろうとしなくていいんです。辛いときは逃げたっていい。自分の身を守るのは自分自身ですから」 時枝さんは本木さんと居酒屋で語らったいつかの日のように、卵焼きを箸でつまみながら「でも……」と言葉を重ねる。 「もし、本木さんの中の譲れないものが、自分より上の立場の人に壊されそうになって、胸が押し潰されそうになったそのときは……。さっさとそんな会社を退職して、本木さんが輝ける新しい場所で夢を叶えてくださいね」 しんみりとした空気を変えるためか、明るい声音で言った時枝さんは卵焼きを大口を開けて食べる。 「んーっ、あの居酒屋のと同じ味ですね。のりと明太子の濃い味がビールによく合うんですよ」 「酒豪のセリフだな」 苦笑いしながら、本木さんもめんたい卵焼きを食べる。残り時間が三分に迫ったところで、残りひとつになった卵焼きを前に本木さんは言う。 「時枝ともっと、飲みに行きたかったな」 「私もです。でも、本木さんがひとり酒してるときは、また化けて出て一緒に飲んであげます。見えなくても、隣で愚痴くらい聞きますから」 「はは、それは心強いよ」 日常の延長線上であるかのようにふたりは他愛もない会話をして、最後の卵焼きを口に含む。 泣きながら笑って、ときどき喪失の痛みに耐えるように眉根を寄せて、ゆっくりと嚥下すると――。 カランカランッと箸がテーブルに落ち、空になった卵焼きの黒皿だけが残った。消えた時枝さんに肩の荷が下りたかのか、本木さんは宙を見上げて呟く。 「ひとり酒するときは、あいつのためにめんたい卵焼き、頼んでやるか」 *** 本木さんが帰ったあと、全員で夕食を黄泉喫茶でとることにした。 「無事に終わって一安心じゃの!」 私と那岐さんの間に座っているオオちゃんがにこにこしながら、めんたい卵焼きをぱくっと食べる。 その向かいでは烏場兄弟が大根サラダをつついていた。 サラダを食べるタイミングまで、兄弟なんだな。 微笑ましくその光景を眺めていたとき、くしゅんっとくしゃみが出た。とっさに口元をおしぼりでおさえると、目の前に座る水月くんが気遣うような眼差しを私に向けてくる。 「大丈夫? 沼に落ちたんでしょ? 着替えたとはいえ、身体は冷え切ってるんじゃない?」 本木さんと時枝さんの別れの時を最期まで見届けたかった私は、濡れたワンピースのまま数十分を過ごした。 言われてみると喫茶店の制服に着替えたというのに、さっきから寒気がする。 でも、エアコンがきついわけでもないし、こんな夏にあのくらいの水浴びで風邪をひくはずがないか。 さほど気にも留めず、私は「大丈夫だよ」と返して、あさりのお味噌汁を啜った。 すると、またもや水月くんと同時にめんたい卵焼きに箸をつけた陽太くんが軽く首を傾げる。 「そもそも、なんで沼に落ちたの?」 「時枝さん、喫茶店を出たら靄に戻っちゃってたの。声が聴こえるのは私だけだから、意識を集中させてたら集中しすぎて足を滑らせて、ジャボンッと」 「どんくさ」 グサッと陽太くんの言葉が胸に刺さって、私は「うっ」と情けなさからうめく。 あのときは周りが見えなくなっていたから、随分と那岐さんに心配をかけてしまった。 ふいに頭の中に『――こんの、バカが!』という切羽詰まった声と熱い抱擁が蘇って、私は那岐さんを見上げる。 その横顔はどこか思い詰めているようで、私は「那岐さん?」と名前を呼んだ。 けれども、那岐さんはお味噌汁の水面に視線を落としたまま微動だにせず、さすがの皆も心配そうに顔を見合わせている。 私はもう一度、今度はもう少し大きな声で「那岐さん!」と名前を呼んだ。 ようやく那岐さんはハッと目を見開いて私を振り向き、「なんだよ」と不愛想かつ不機嫌に返事をした。 「……それは私のセリフですよ。ぼーっとして、悩み事ですか?」 「たとえ悩み事があったとしても、お前にだけは話さねえ」 「……恩を倍の仇で返す人と出会ったのは、那岐さんが初めてです」 「そんなことより、お前はあの沼の底が深かったって言ったな」 自分から喧嘩を吹っかけてきたのに〝そんなことより〟のひと言で勝手に沈火した彼はなんの脈絡もない問いで、またもや私の頭を混乱させてくる。 「え? ああ、言いましたけど……あのときは私も焦ってたので、そう感じただけかもしれません」 「ここは黄泉の国と隣り合わせの場所なんだぞ、勘違いで片づけるのは危険だ。ただでさえお前は黄泉の国とゆかりがあるんだ。もっと警戒心を持て」 言い方はあれだけど、もしかして……。 「心配してくれてます?」 「自意識過剰なやつだな」 そうは言うけれど、彼はきっと私の身を案じてくれたのだろう。これまで危険な場面では守ろうとしてくれたし、体調が悪ければ人目も気にせずおぶってくれる人だから。 私はこれ以上突っ込むと那岐さんの機嫌が悪くなりそうなので、「明太の他に卵焼きになにを入れたら、おいしくなると思う?」と話題を変えて皆との夕飯を楽しんだ。 家に帰ってきて、すぐのことだった。 三八度もの高熱を出した私は、那岐さんが居間に敷いてくれた布団に横になっていた。 なんでも、自室だと看病しにくいだからだそうだ。理由はなんとなく、これでも私を女性だと気遣ってくれたからかもしれない。 「前髪、あげるぞ」 熱に浮かされてうんうん唸っている私の額に、那岐さんは氷水に浸して絞った手ぬぐいを載せてくれた。 「すみません、私……これでも看護師だったのに、風邪ひいてたの……気づかなかった」 「人に気を遣う仕事についてるやつは大抵、自分のことには無頓着なんだよ。お前がいい例だろ。間接的にではあるが、沼に落ちたのは霊のせいなのに、お前は霊を説得してやがった。お人好しにもほどがある」 呆れ交じりの物言いではあるが、私の額に触れる手は優しい。 前にも、こんなことがあったな。 お風呂でのぼせて縁側で休んでいたとき、目が覚めると那岐さんは私のことをうちわで扇いでくれていたのだ。 「診療所は明日にならないと開かないから、今日は市販薬で乗り切るしかないな。買ってくるから、少し寝てろ」 那岐さんはバタバタと用意をして、家を出ていく。だだっ広い居間に残された私は天井を見上げて、その木目をぼんやり眺めた。 ああいう木目って、顔に見えてくるから気持ち悪いんだよね。 ぼんやりとしてまとまらない思考の中でそんなしょうもないことを考えていたとき、天井のすべての木目がじわじわと私の真っ正面に集まるように渦を巻きだした。 「……っ、あ……?」 な、なに? そう言おうとしたのに声が出ない。それどころか、身体も金縛りにあったかのように指先ひとつ動かず、冷や汗が背中を伝う。 木目は次第に髪の長い女性の顔を象り、浮き彫りになって私に近づいてくる。 ――怖いっ。 本能で命の危険を感じ、目尻から涙がこぼれたとき、声が頭に響く。 『思い出せ、私を愛しいと言いながら突き放した……あの男への憎しみを』 怒涛のように流れ込んでくる失望と裏切りへのとてつもない絶望感。身を切り裂かれるような痛みと自分が狂っていく感覚に混じって、『イザナミ』と呼ぶ憎くも愛しい声。 ほとんど直感的に目の前にいるのはイザナミ――私の前世の魂であると理解した。その瞬間、私の意識に靄がかかる。 「思い、出せ……」 口が勝手に言葉を発し、私は起き上がると寝間着である着物のまま玄関に向かう。私の意志と反して引き戸を開けると、靴も履かずに町の中を進んでいった。 私はどこに向かっているんだろう。 その疑問の答えは少しして、民家の壁に掲げられている【黄泉の国への入り口 黄泉比良坂】と書かれた看板を見て判明する。 もしかして、黄泉平坂に向かってるの? 嫌に心臓が騒ぐのは、昼間の沼での出来事だ。 まさか、と恐ろしい予感を抱きながら、動かされている私の身体が辿り着いた先にあったのは――。 暗い底なしの闇のような、あの沼だった。 踏ん張りたくても、足はどんどん沼と地上の境である縁へと向かう。つま先が沼のほうへ出ると私は空を飛ぶみたいに両手を広げて、そのままジャボンッと沼に落ちてしまった。
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