▼四話 恋の雪溶けスフレパンケーキ

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▼四話 恋の雪溶けスフレパンケーキ

黄泉喫茶で働くことになってから一週間が経ったある日の夜、私は夢を見た。 『お願いだから追いかけてこないで』 目の前には道を塞ぐ冷たい岩。その向こうにいる誰かに私が何度も叫んでいると、返事があった。 『我は自らの子――ヒノカグツチをこの手にかけ、それでも悲しみは晴れず、こうして黄泉の国までお前を迎えに来たというのに、なぜすぐに顔を見せてはくれないのだ……!』 どこか懐かしい、でも最近も聞いたような男の人の声だった。 『なんてこと……』  この命を賭けて生んだ我が子を手にかけただなんて……。  誰かの心の声が私の中に流れ込んでくる。ひたひたと迫ってくる絶望感に俯いていると、また岩の向こうから声が聞こえた。 『一緒に帰って、再び我らの国を作ろう』 『ごめんなさい、それはできないわ。共食は済んでしまったから……』 『なんだと……っ。いや、だとしても、我が無理やりにでもお前を連れ帰る』 『それはダメよ。簡単に理を変えてはいけない』 『お前は諦めるのか? 我はお前に触れたい、ともに生きたいとそう思っている。お前は同じ気持ちじゃないのか?』 そんなの、考えるもなく同じ気持ちに決まっていた。でも、死んだ人間が現世に戻ることはおろか、共食までしてしまった自分が現世に戻って彼とともに生きることは許されない。 でも、私も愛してる。どうしようもないくらい、その腕のぬくもりが恋しかった。長い沈黙のあとで、私は最後に胸に残った想いを貫く決意をして、やっと口を開く。 『黄泉の神々に、あなたのもとへ戻れないか相談してみます』 『……そうか! では、我も一緒に――』 『それはいけません!』 彼の言葉を遮るようにして遮った私に、『なぜ……』と動揺の滲んだ声が返ってきた。 『私の姿を見られたくないのです。だから、決してこの扉を開けてはなりません』 扉――岩にそっと手で触れた私は背を向けて、再び念を押す。 『約束ですよ』 『ああ、わかった』 私は暗闇だけが続いている道を進む。 けれど、そこから目的地までは信じられないほど長い道のりになるのを知っている。 どこまで進んだだろうか。時間の感覚さえも分からなくなっていた私の耳に、『どこにいるんだー!』という声が聞こえて、つい足を止める。 まさか、という胸騒ぎとともに近づいてきた足音に振り返ると――。 『イザナミ、やっと見つけ……』 来てはいけないと言ったのに追いかけてきてしまった彼は長い黒髪を揺らし、金色の帯や豪華な浅葱色の着物を身に着けている。 そして、信じられないことに那岐さんにそっくりだった。 『ああ、なんてことだ……』 息を切らして額に汗をかきながら、私の姿を上から下まで見下ろして顔を真っ青にした彼は後ずさった。 私はふと足元にあった地面の水たまりを覗き込んで、驚愕する。 落ち窪んだ目からはウジがわき、身体の至るところが腐っている。 右肩からは、自分とは別の雷神の顔がボコボコと八体も出ていた。 『いっ……いやああああっ』 *** 「いっ……いやああああっ」 自分の叫び声で、私は目覚める。 「おいっ、大丈夫か?」 視界に那岐さんの顔が広がって、ほっと息をついた。瞬きをすると、目尻から涙がこぼれて頬を伝う。 「あれ、私……どうして……」 視線を彷徨わせると、私は縁側で横になっていた。 そういえば……お風呂でのぼせたから縁側で涼もうと思って、横になったっきり眠っちゃったんだっけ。 じわじわと思い出した私は、那岐さんを改めて見上げる。 その手にはうちわが握られていて、私を仰いでくれていたらしいことがわかった。 「すみませ……ん」 謝ろうとしたのだが、声が掠れてうまくでない。 そんな私に、那岐さんは「待ってろ」と言って立ち上がると、どこかへ行ってしまった。 それから少しして、水の入ったコップを手に戻ってくる。 「飲め」 「あ……ありがとうございます」 わざわざ、水を汲みに行ってくれてたんだ。 胸にじんわりとぬくもりが広がるのを感じていると、那岐さんは横になっている私の隣に胡坐をかく。 「うなされてたぞ」 「いつも見る変な夢に……続きが、あって」 ドラマの見すぎとか、笑われるのがオチだとわかっているけれど、私は那岐さんの優しい雰囲気に背中を押されて打ち明ける。 「夢? 詳しく話せ」 やけに興味津々な彼に驚きつつも、私は怠い上半身を無理やり起こして水を飲み、夢で見たことをそのまま話した。 それを茶化すでもなく真剣に聞いてくれていた那岐さんは私の話が終わると、夜空に浮かぶ青白い三日月を見上げた。 「……夢の中の自分がどんな姿でも、お前はお前だ」 「私は私……」 「そうだ。それだけは確かだから、お前は伊澄灯として今までどおり生きればいい」 なぜだか、そのひと言が心の底から嬉しかった。 私はこの夢を見るたびに、夢の中の私に心も身体も侵食されてしまうような、そんな不安を抱いていた。 だから、私は私なんだと言ってもらえて、ほっとする。 「ありがとうございます、那岐さん」 「別に」 「変な話、しちゃってごめんなさい。でも、笑わずに聞いてくれて、嬉しかった」 「……怖がってるお前を笑い飛ばせるほど、神経図太くねえよ」 「はい。那岐さんはそういう人でしたね」 風が優しく、空気が暖かくなった気がする。 私はさっきまでの恐怖が嘘みたいに穏やかな気持ちで、那岐さんと一緒に月を眺めるのだった。 *** 翌朝、那岐さんと黄泉喫茶に向かうため、古い山陰道に沿って展開している二階建ての木造家屋の町を歩いていた。 赤瓦や黒瓦が入り混じり、千本格子も残っている伝統的な古き良き日本の町並みに、何度も通った道だというのに目を奪われる。 「那岐さんは、おばあ様と暮らす前もずっと出雲町に住んでたんですか?」 「いや、小学三年までは東京にいた。そこから、ばあちゃんのいた出雲町に越してきた」 「そうだったんですね……」 那岐さんは幼い頃に、ご両親に捨てられてしまった過去を持っている。 小学三年生でこの町にきたときの那岐さんは、なにを思っていたんだろう。 またいつ自分が捨てられてしまうか、そんなことを考えて不安だったのかな。 八歳の男の子が背負うにはあまりにも大きすぎる重荷に胸が締めつけられて、つい彼の横顔を見つめてしまう。 すると視線に気づいた那岐さんは、ちらりと私を見てため息をついた。 「もう、とっくに割り切れてる。それに、この町に来て家族みたいなやつらも出来たしな」 それはたぶん、黄泉喫茶のみんなのことだ。 那岐さんが寂しくないのなら、よかった。 私も微力ながら、那岐さんの孤独を埋められたらいいな。 おこがましくもそんなことを考えていると、通りかかった路地に黒い靄のようなものが見えた気がして、私は足を止める。 なんだろう、今の……前に陽太くんを見たときも同じような靄を見た。 「おい、なにしてんだよ」 少し先で私が立ち止まったことに気づいた那岐さんは、早くしろと言いたげな顔で振り返る。 「ああ、はい。すみません、今行きま……」 『誰か、私に気づいて――』 歩き出そうとしたとき、頭の中に直接響くような声がした。 ズキッと痛む頭を押さえると、那岐さんが駆け寄ってくる。 「どうした」 「なんか、女の人の声、が……」 「声?」 那岐さんは辺りを見渡して、それから数歩下がると路地を凝視した。 「……彷徨ってるみてえだな」 私は那岐さんのそばに行くと、一緒に路地を覗く。 そこには、やっぱり黒い靄のようなものが揺らめいていて、とっさに那岐さんの服の裾を掴んだ。 「あれ……那岐さんにも見えてます?」 「ああ、あれは死者だ。強い未練がこの世にあって、黄泉の国へ行きそびれたんだな……」 「えっ」 だから、陽太くんもああ見えたってこと? でも、靄になって見えたのは一瞬で、あれ以来ちゃんと人の姿をしていたけど……。 目の前の死者はどうして、人の姿をしていないのだろう。 「陽太くんとか、喫茶店に現れた死者とはずいぶん姿が違うね」 「普通は肉体を失うと、魂はああやって形を失う。だが、黄泉喫茶では現世に残された人間の会いたいって思いが死者を生前の姿に戻すんだ」 そんな仕組みがあったんだ……。 「死者を会って話をするには、生者の強い思いが必要不可欠なんだね。それにしても、あの死者はどうしたらいいのかな」 「……どうもできない。あの死者に、成仏する気がない限りな」 「そんな……あんな暗がりにひとりでいるだなんて、寂しいよ」 なんとか、してあげられないのかな。 あの死者にも大事に思ってくれる誰かがいたはず。 あれが自分の妹だと思ったら、ひとりで彷徨ってるのを知ってるのにほっとくなんてできないよ。 そう思ったとき、器官としてのそれはないのに目が合った気がした。 『――私が、見えるの?』 また声が聞こえて、私は頭を押さえる。 ズキズキと痛むけれど、今度は取り乱さずにしっかり死者を見据えた。 「あなたの声、聞こえるよ」 「灯、なに言ってんだ」 「那岐さんには、聞こえませんか? あの死者の声」 目を丸くしている彼の反応を見たら、どうやら聞こえているのは私ひとりらしかった。 こんな霊能力、今までもってなかったはずだけど、なりふり構っていられない。 私は恐る恐る路地のほうへ歩いていく。 『お願い、会いに行かないといけない人がいるの。力を貸して』 「それってどんな人?」 『大事な人……結婚するはずだったの。ふたりで挨拶に行く前に出雲町にある実家に私だけ帰省して、あの人のところへ帰る途中だった。乗ってたバスが事故に遭って……』 そのまま、彼女はきっと亡くなってしまったんだ。 幸せの絶頂にいたはずなのに、なんて理不尽で悲しいことだろう。 胸が重くなって、彼女の辛さがひしひしと伝わってくる。 「あなたの会いたい人は、その婚約者さん……ですね?」 『ええ、そうよ』 「わかりました」 私はどうしたらいいか助力を乞うように、那岐さんを振り返った。 その瞬間、腕を引っ張られて、力強く抱きしめられる。 「え……」 「――それ以上、行くな!」 「な、那岐さん?」 突然の抱擁に心臓が止まりそうになった私は、那岐さんの顔を見上げる。 その顔は不安で不安でたまらないといった様子で、青ざめていた。 「あ……わ、悪い」 自分でもなんでそんなことをしてしまったのか、わからない。 そんなニュアンスの謝罪だった。 「い、いえ……大丈夫ですか? 顔色が……」 「平気だ。それで、死者はなんて?」 那岐さんは額を手で押さえながら、死者を見る。 大丈夫って顔じゃないけど、追及されたくなさそう。 しょうがない、体調がずっと悪そうだったら今度は強制的に休ませよう。 私は気づかないふりをすることに決めて、死者との会話をそのまま伝えた。 事情を知った那岐さんは、「とにかく黄泉喫茶に連れていくぞ」と、そう言ったので、私たちは死者を連れて黄泉喫茶に向かうことになった。 喫茶店に到着すると、私はみんなに事の成り行きを説明する。 みんなの視線に緊張しているのか、死者である彼女は靄の姿のまま、慌てて私の背後に隠れてしまった。 「その、死者さん。お名前はなんていうの?」 水月くんは私の背にいる靄に向かって声をかける。 『美紀です……荒井美紀』 「荒井美紀さんというらしいです」 「美紀さん、よろしくね。それにしても……」 死者相手にも変わらずフレンドリーな水月くんの視線が私に移る。 「なんで灯ちゃんにだけ、美紀さんの声が聞こえたんだろうね」 「私も驚いてます。霊感なんて、なかったはずなのに」 美紀さんの声は、残念ながら私にしか聞こえないらしい。 神様のオオちゃんでさえ、目に見えるだけなのだとか。 「那岐は心当たりないの」 珍しく角席ではなく、私たちの輪の中にいる陽太くんが那岐さんをちらりと見上げる。 「……さあな」 那岐さんは歯切れ悪く、ふいっとそっぽを向いた。 見かねたオオちゃんは自分に注目!というように、両手を挙げて振った。 「ともかく、事情はわかったぞ。まずは美紀の会いたい相手――磯部誠(そのべ まこと)を探し出して、この喫茶店に連れてくる必要があるのう」 「そこでちゃんと話をすれば、美紀さんの未練も晴れるだろうしね」 水月くんが同調すると、みんなも首を縦に振る。 「で、そこの自称神様。その誠さんはどうやって探すの」 陽太くんは答えをくれそうなオオちゃんのほうを向き、そのつむじを人差し指でつんっと押す。 「自称ではない! 僕は本物の神様だ!」 ムッとするオオちゃんに、私は苦笑いする。 このままだと話が進まなくなりそうなので、オオちゃんを宥めようとしたとき――。 『東京にふたりで済んでたマンションがあります。事故から三か月ほど経ってますが、もしかしたらまだそこに住んでるかも……』 「美紀さん、本当ですか!」 私が声を上げると、水月くんが「美紀さんはなんて?」と声をかけてくる。 「東京に、一緒に暮らしてたマンションがあるって」 「……いや、誠はこの東出雲町に来ているようだぞ? どうやら、美紀の父君と母君のところへ行っていたらしいのう。理由は……本人から直接聞くとよい」 オオちゃんには誠さんが出雲町に来ている理由がわかっているのかもしれないけれど、口にはしなかった。 「じゃあ、さっそく……って、俺たちは行けないんだった」 エイエイオーッと腕を上げた水月くんが苦笑いしていると、その隣で陽太くんがひらひらと怠そうに手を振る。 「そこのなんちゃって桃神も含めて、俺たちは留守番。だから行ってらっしゃい」 「僕のご神木、やまももの木はこの地にあるのだ。そこから離れられないのは、仕方なかろう!? なのに、陽太は僕を無能扱いして……っ」 顔を真っ赤にして怒るオオちゃんは陽太くんの背中にしがみついて、その両耳を引っ張っている。対する陽太くんはオオちゃんを引き剥がそうと暴れた。 「ちょっと、痛いんだけど!」 「こらこら、ふたりともふざけないで」 お兄ちゃん気質である水月くんがそれを止めようと声をかけたときだった。 あまりの騒がしさに舌打ちをした那岐さんは、ツカツカと三人のそばへ歩いていく。 「ここは幼稚園……いや、動物園か? ほどほどにしねえと、猿轡かませんぞ」 また、那岐さんの目が殺気を放ちながらギラリと光っている。 この人なら、やりかねない! そんな危機感を覚えた私は那岐さんの腕を引っ張っぱる。 「ほ、ほら、誠さんのところへ行きましょう」 「まだ話は終わってねえぞ」 「これからの話をしましょう? 誠さんに会って、どうやってここに連れてくるかーとか、そういう有意義かつ安全なやつ!」 那岐さんを引きずるようにして、半ば強引に喫茶店の扉へ向かう。 那岐さんは不満げながらも、私の意見に賛成してくれたのか、おとなしくついてきてくれた。 みんなの安堵した顔を見届けて喫茶店を出てきた私たちは、オオちゃんの情報を頼りに東出雲町にある美紀さんの家へとやってきた。 すると、【荒井】の表札のある家の前で、お辞儀をしてこちらへ歩いてくる二十代後半くらいの男性がいた。 「あ、あの人じゃないですか?」 「そうみてえだな、話しかけるぞ」 「――え? なんの作戦もなしにどうやって……」 喫茶店まで連れ帰るんですか?と言い終わらないうちに、那岐さんはツカツカと男性の前まで行って立ち塞がる。 男性は不審者を見るような目で那岐さんを直視したあと、その横を通り過ぎようとした。 だが、那岐さんは無言で男性の前に回り込む。 なにしてるんだろう、那岐さん……。 もしかして、前まで行ったはいいが、どう声をかけていいのかわからなくなったのとか? 通行を妨げる那岐さんと、なんとしても切り抜けようとする男性の謎の攻防戦が目の前で繰り広げられている。 見ていられないので、私はふたりの元へ向かった。 「磯部誠さん……ですか?」 そう声をかけながら近づくと男性は一瞬、目を見張ってから「どうして俺の名前を?」と驚いていた。 質問にどう答えるべきか迷っていると、私の後ろで靄――美紀さんがゆらゆらと動く。 『約束……パンケーキ食べるって約束、叶えられなくてごめんね』 一般人に死者の声が届かないのは美紀さんも理解していただろうけれど、顔を見たら思わずといった様子で呟いていた。 喫茶店に連れていく口実ができた、と私は美紀さんに感謝しつつ磯部さんに問いかける。 「美紀さんとパンケーキを食べる約束……してませんでしたか?」 「それを……どうして君が知ってるんだ。美紀と知り合いなのか?」 「あー……は、はい。地元の友達で……その、ここではなんですから、時間があればですけど、喫茶店でお話しませんか?」 ここは美紀さんの実家がある場所だし、私が地元の仲のいい友人ならばパンケーキを食べる話を知っていたとしてもおかしくはないだろう。 磯部さんも私が美紀さんの知り合いだと知って、警戒していた表情を緩める。 ――嘘をついて、ごめんなさい。 あとで叱責はいくらでも受けよう、と覚悟して私たちは磯部さんを連れて歩き出す。 やがて黄泉平坂にある鳥居の近くまで来たとき、磯部さんは「あの……」と戸惑うように声をかけてきた。 前を歩いていた私と那岐さんは同時に振り向く。 「なんだ」 「どうしました?」 那岐さんは私たちの顔を見て、辺りの森を見て、進行方向の古びた鳥居を見て、言いにくそうに切り出す。 「喫茶店、こんなところにあるんですか?」 ああ、そうよね。 いきなり彼女の友人とはいえ、こんな森の奥に連れてこられたら戸惑うのも無理はない。 配慮が足りなかったなと反省しながら私がフォローを入れようとしたとき、那岐さんに先を越されてしまう。 「黙ってついてこい」 どうして、この人はいちいち喧嘩腰なんだろう。 前に水月くんが那岐さんは愛想っていう世渡りの基本中の基本スキルを獲得できなかった哀れな男だと言っていたけれど、本当にその通りだ。対人能力の欠片も備わっていない。 「もう少しです。あの鳥居を潜ったら着きますから」 私は空気を和やかにするべく笑顔を浮かべながら、隣を歩く那岐さんを肘で突いた。 「なんだ」 那岐さんは睨んできたが、私は〝空気を読んでくださいよ〟と抗議の視線を送る。 お互いに引かず無言で凄み合っていたら、いつの間にか鳥居を潜っていたようで喫茶店の中にいた。 背後で「うわっ、なんだ!?」という当然といえば当然の悲鳴があがる。 私は数回程度、足を運んだだけなのに、すでにこの状況に慣れを感じていたので磯部さんの反応がやけに新鮮に感じた。 「いらっしゃいませ!」 「いらっしゃいなのだ!」 水月くんとオオちゃんの声が重なり、いつもの角席に座っている陽太くんも「ああ、予想よりも早い到着だね」と興味なさげにこぼした。 集まる視線と鳥居を潜ったら喫茶店にトリップするというこの状況に、磯部さんの思考は見るからに停止している。 口を半開きにしたまま固まっている彼に、私は水月君と顔を見合わせて苦笑いした。 「えっとー、うん、きみの動揺はわかるよ。だけど、今はとりあえず座ろっか」 水月くんは気を取り直すように彼の背に回ると、グイグイ押して席に案内した。少々強引ではあるが、美紀さんのためにもご愛敬である。 「メニューを持ってその人との思い出の料理を思い浮かべてくださいね」 何の説明もされないまま、水月くんにメニューを渡された磯部さんは助けを求めるように私と那岐さんを見上げた。 私は美紀さんの靄と一緒に磯部さんの席の前に立ち、「すみません」と開口いちばんに謝罪する。 「私が美紀さんの友達っていうのは、嘘なんです」 「――え、ならどうして美紀のことを……」 「信じられないとは思いますが、美紀さんがそばにいるって言ったら……その、信じてくれますか?」 私の言いたいことに気付いたらしい磯部さんは、静かに席を立って出口に向かう。 遠ざかる背中に「磯部さん!」と声をかけて呼び止めれば、彼はこちらを振り返らずに肩を震わせた。 「どこで俺や美紀のことを調べたんです? そうやって、金でもせびるつもりですか」 「……疑いたい気持ちはわかります。私も……最初は半信半疑だったから」 自分の話が磯部さんを引き留めるきっかけになるかはわからないが、思いを届けられない美紀さんは私たちしか頼れないのだ。 私たちが諦めたら、会いに行かないといけない人がいると必死に訴えていた美紀さんは愛する人と話せる唯一の機会が費える。 そんな絶望、味わわせてはいけない。 「私もここで死者と……事故で亡くなった妹と話しました。お互いに伝えたかったことを言い合って清算できたから、今は妹の死を思い出しても泣かずに済んでる」 大切な人の死は永遠に過去になんてならないのだと思う。記憶の中にその人がいる限り、ずっと昨日のことのように蘇る。 だからこそ思い出したときに涙がこぼれなくなるまで、今は亡き愛する人への心残りを晴らしてほしい。 本来ならばその奇跡のような機会は得られないのだから。 「もし、磯部さんが今も美紀さんの死から進めないでいるなら、騙されたと思って一度だけ私たちを信じてください」 磯部さんはなにも言わなかった。 唇を固く引き結んだまま、静かに踵を返して席に戻ってくれる。 私たちの会話を見守っていた水月くんは躊躇いがちにメニューを磯部さんに渡そうとしたが、美紀さんが『誠はパンケーキを知らないんです』と不安げに私を見た。 『私が友達と食べたときに見つけたパンケーキ屋なんです。おいしかったから東京に帰ったら誠にも食べさせてあげるねって、約束したんですけど……』 「そっか……東京に帰る途中でバス事故に会ったんだものね、約束は果たせなかったんだ……。じゃあ、どうやってメニューを再現すればいいんだろう……」 ふたりで話していると、腰巻きの黒いエプロンをつけた那岐さんがそばにやってくる。 「なにぶつぶつ言ってんだ」 「あ、那岐さん。実は思い出のパンケーキ、食べる前に美紀さんは事故に遭ってしまったみたいで……。これじゃあメニューを磯部さんに渡しても意味ないですよね?」 「なら、そこの荒井美紀にメニューを渡せ」 那岐さんが目配せすると水月くんは瞬時にその意図を汲んで、メニューを靄の美紀さんに近づけた。 美紀さんが見えない磯部さんは、怪訝そうに私たちの様子を観察している。 「メニューに触れたら、そのパンケーキを頭に思い浮かべてね」 水月くんに言われた通り、美紀さんが手と思われる靄の一部を伸ばしてメニューに乗っけた。 メニューは淡い黄金の光を放ち、明滅して静かに収まる。磯部さんはその様を食い入るように見ていた。 美紀さんから受け取ったメニューを水月くんはその場で開く。 私は那岐さんと同時に【雪溶けのスフレパンケーキ】の文字に指を乗せた。 途端に、滝のように流れ込んでくる、記憶――。 『これ、私の知ってるパンケーキと違う!』 赤いチェックのランチョンマットがテーブルに敷かれ、蜂蜜の容器もミルクポットもシュガーポットも、小物のどれをとっても西洋のお姫様気分を味わえる店内。 そこで向き合うようにして座っている女性ふたりを私と那岐さんは遠目に眺めていた。 『美紀の知ってるパンケーキって、ホットケーキミックスで作ったやつ? ルームシェアしてたとき、よく家にため買いしてたよね』 『その節はご迷惑おかけしました』 肩まである栗色の髪とはっきりとした二重の可愛らしい顔立ち、右手の薬指に婚約指輪をはめた美紀さんの向かいにいるのは気の知れた友人なのだろう。 美紀さんはテーブルに手をついて、友人にわざとらしくひれ伏した。 『いいよ、別に。美紀が彼氏と同棲してからは大量のホットケーキミックスの箱が見られなくて、ちょっと寂しかったくらいだし』 『私ってば、愛されてるなあ』 『すぐ調子に乗る』 やいやい騒いでいるふたりは笑いがひと段落ついてから、バターの乗ったパンケーキに蜂蜜をかけてナイフで切り口に運ぶ。 美紀さんは咀嚼しながらみるみると瞳を輝かせて、フォークを持ったまま頬を押さえた。 『んうぅ~っ、ふわっふわ、しゅわって口の中で溶ける! 名前の通り雪みたい……』 『なんたって雪溶けのスフレパンケーキだからね』 『うん、誠にも食べさせてあげたい』 『おいしいもの見つけるといつもそう言うよね、美紀』 指摘されたのが恥ずかしかったのか、美紀さんは『えへへ』と照れ笑いを浮かべて、テーブルに頬杖をつく。 『誠と出会って、嬉しいも悲しいもおいしいも、なんでも分け合いたいって思うようになったの。結婚って、こうやって自分の背負ってるものとか感覚とかを共有していくことなのかもって最近は思うんだ』 パンケーキを食べながら磯部さんへの想いを語る美紀さんに、胸が締めつけられる。 それは事故で引き裂かれたふたりの悲しみからではなく、どんな気持ちで磯部さんにパンケーキを食べてほしかったのかを知ったからだ。 温かい、愛の記憶に触れたからだ――。 目を閉じれば自然と溢れた涙が目尻を伝って流れ、もう一度瞼を持ち上げると私は見慣れた喫茶店の風景の中にいた。 「おい」 不愛想な声とともに差し出されるハンカチ。顔を上げれば、そっぽを向いたまま那岐さんが「早くしろ」と苛立たしげに急かしてくる。 私はおずおずとそれを受け取って、見かけによらず優しい人なんだなとこっそり笑う。 怖い顔も近寄りがたい態度も照れ隠しなのかもしれない。 そんなふうに考えながら目元をハンカチで拭っていると、那岐さんは先にキッチンのほうへ歩き出した。 「美紀さんも席に座っていてください。美紀さんが分け合いたかったおいしい、を必ず届けますから」 『……!』 美紀さんが息を吞んだ気がした。 私はそれに笑みを返して、一旦バックヤードに入ると制服に着替えてキッチンに立った。 那岐さんがフライパンを取り出している隣で、私は卵を四つにプレーンヨーグルト、塩に薄力粉、ベーキングパウダーに砂糖、無塩バターを準備する。 那岐さんはボウルをふたつ取り出して、そのうちのひとつに私の用意した薄力粉一〇〇グラムとベーキングパウダー小さじ二杯を入れてかき混ぜる。 私は那岐さんが出した二つ目のボールに卵黄四個とプレーンヨーグルト大さじ四杯を入れてヘラで全体を馴染ませた。 「手、どけろ」 頃合いを見て那岐さんが薄力粉とベーキングパウダーを私のボールに投入してきたので、ムラのないように再び混ぜる。 そんな私たちの様子を眺めていた水月くんとオオちゃんは「「夫婦の息」」だね、と声をそろえた。 「夫婦じゃねぇ」 ふたりを凄みながら那岐さんは氷水が入った大きなボールの中に小さなボールを浮かせ、そこへ卵白四つと塩をふたつまみ入れた。 冷やしながら泡立てるとメレンゲのキメが細かくなって、安定するからだ。 「でも、息ぴったりだし」 にこにこしている水月くんの含みのある笑みを完全スルーした那岐さんは、これ以上戯言を吐くな、と言うようにハンドミキサーのスイッチを入れてメレンゲを作り始めた。 白っぽくなるまで泡立ってきたのを見計らって、今度は私が那岐さんのボールに砂糖を大さじ四杯を二回に分けて入れた。 その間は特に声掛けもなく、私が入れたそうにしていると那岐さんがハンドミキサーのスイッチを切って手を止めてくれたのだ。 「やっぱり、今も昔も夫婦じゃな」 オオちゃんの言葉に私は「昔も?」と首を傾げる。 すると、那岐さんは物凄い剣幕でオオちゃんを睨みつけていた。もはや視線が徹夜で研いだナイフのようだ。 「そ……れくらい、仲がいいってことだぞ!」 明らかに焦っているオオちゃんはキッチン前のカウンター席から一目散に逃げ出し、陽太くんのテーブルの下に隠れる。さながら、避難訓練のようだ。 その様子を不思議に思って眺めていると、那岐さんが私のボールにメレンゲの四分の一を加えた。 「ボケっとすんな」 「あ、すみません。メレンゲは四回に分けて入れるんですね」 「ああ、いっぺんに入れると中身がちゃんと混ざらねえんだよ」 そうしてすべてのメレンゲを投入したところで、那岐さんはフライパンを中火で温め始めた。 私はメレンゲの泡を潰さないようにヘラで切るように四回ほど混ぜると、バターが敷かれたフライパンにこんもりと盛るように生地を乗せた。 「表面がきつね色になるまで三分焼くぞ」 那岐さんはそう言って片面が焼けると裏返して、今度は蓋をしてさらに三分焼く。 その間にお皿をふたつ用意すると、那岐さんがそこに三段重ねにパンケーキを乗せた。 ふたり分合わせて合計六枚のパンケーキができ、私はバターを上に乗せると蜂蜜ポットと合わせてトレイにセットし、水月くんに渡す。 「できあがりました。熱いから気をつけてね」 「ありがとう、灯ちゃん」 水月くんは慣れた様子で、贅沢に三枚も積み重なったふたり分のパンケーキを美紀さんたちのいるテーブルに運ぶ。 「お待たせしました。雪溶けスフレパンケーキです」 まずはいつも通り、生者である磯部さんの前に皿が置かれた。 美紀さんの分のパンケーキが乗ったお皿を手に、水月くんは恒例の説明を始める。 「死者に出された料理は食べてはダメです。あと、料理は一時間以内に食べ終わること。これを破ると磯部さんも呼び出された黄泉の国の人間も一生、このお店から出られなくなっちゃうから、必ず守ってくださいね」 水月くんの忠告にゴクリと喉を鳴らした磯部さんは、慎重に頷く。 それを見届けて、水月くんは「後悔のないようにね」と美紀さんの前にお皿を置いた。 皿がコトリとテーブルにぶつかって音が鳴った瞬間、靄だった美紀さんの身体がレシピに触れたときに見た栗色の髪の女性の姿に早変わりする。 「美紀……?」 吐息のような呟きが磯部さんの唇からこぼれ出る。 美紀さんは自分の手のひらと目の前に座る磯部さんを交互に見つめて、自分が認識されていることに気づくと瞳を潤ませる。 「誠……一ヶ月ぶり……だね」 「信じられない……俺はお前の葬式にだって出たんだ。お墓にも行ってお参りして、今日だってお前が亡くなってちょうど一ヶ月経ったから仏壇に挨拶に……なのに、なんで……」 語尾が湿り気を帯び、完全に途切れた。 小刻みに身を震わせ、テーブルの上にぽたぽたと涙の粒を落とす。 ふたりの様子を那岐さんとキッチンから眺めていた私は、美紀さんの家に磯部さんが足を運んだ理由を聞いて不思議な縁を感じた。 今日、私が美紀さんと出会ったのも、磯部さんが美紀さんの家に行ったのも、すべてこの瞬間の逢瀬のためだと思ったのだ。 「誠、もう何度も仏壇にあいさつに来なくたっていいんだよ? 東京から通うの大変でしょう? 私はその気持ちだけで十分だよ」 テーブルの上にあった磯部さんの手に、美紀さんは自分の手を重ねる。 けれど、磯部さんは首を横に振りながら、もう離さないとばかりに美紀さんの手を強く握った。 「……それ、お前のご両親にも言われた。けど俺、すげえ嫌だった。なんでかわかるか? お前との繋がりがなくなりそうで、怖かったんだよ」 「そんな、なくならないよ」 「なくなるんだよ!」 磯部さんが声を荒げると、美紀さんの肩がビクッと跳ねた。 息をするのも躊躇われるくらい喫茶店内の空気が重くなり、磯部さんは我に返った様子で俯く。 「……俺たちは付き合ってただけで、籍は入れてない。葬儀だって夫じゃなくて、家族じゃなくて、ただの恋人……一般の参列者と同じなんだ。まるで、俺が美紀と特別な関係だったことさえ、時間が経ったら消えそうで……」 打ちひしがれている磯部さんの姿を見て、ごめんと謝るのも励ますのも違うと思ったのか、美紀さんはただひたすらにその手を握り続けていた。 「俺は……ずっとお前と生きていくんだと思ってた。今さら、美紀がいない未来なんて想像できない」 「……誠、私だってずっと一緒にいる気満々だったよ。でもね、こうなっちゃったからには……私がまた化けて出てくる必要がないように、誠には幸せになってって言いたい」 その言葉に顔を上げた磯部さんは、「無茶言うな」と弱々しくこぼす。 「うん、それでも言うよ。私を心配させないように生きて。私に禊立てるみたいに恋しないとかも禁止。もし、もう一度、誰かを愛せたら……その人と生きてほしいの」 「美紀まで、俺を突き放すのか」 「違うよ、あなたの未来を愛してるからこそ言ってるんじゃない。なんで……わからないの、バカ……っ」 それまで包み込むような笑顔で磯部さんの悲しみを受け止めていた美紀さんだったが、強がりきれなかったのか、泣き出してしまった。 「私だって、私だってこんなこと言いたくないよ。でも、重荷になりたくないの。だから、私に永遠は誓わなくていい。その代わり、忘れないでいて……っ」 「……ごめん、酷いこと言った。美紀の気持ちはわかってるし、忘れるわけないだろ。それだけは絶対、約束する。ごめん……」 痛みを分け合うように、ふたりは手を握り合った。その姿に私の目は熱くなり、涙が頬を伝っていく。 どうしてこのふたりが一緒にいられないのか、極悪人ならたくさんいるのに、どうして美紀さんだったのかと、しょうもないことをぐるぐる考えてしまう。 命に優劣がないように死も平等に来るのだと思ったら無性に神様に腹が立って、胸の中で怒りと悲しみがない交ぜになって暴れ回る。 そんな私の左手がふいに温かくなった。 隣を見上げれば、前を向いたまま無言で私の手を握っている那岐さんの横顔がある。 寄り添ってくれているのだとわかり、優しさの津波が私の中に渦巻いていたモヤモヤした感情をすべて押し流してくれた。 「湿っぽいのはやめにしよう。時間は限られてるんだもん、私……誠とパンケーキが食べたい。ずっと、分け合いたいって思ってたから」 気を取り直したように明るい声を出した美紀さんは、ナイフとフォークを磯部さんに差し出した。 それを受け取りながら、磯部さんは首を捻る。 「半分こにするってことか? ふたつあるのに?」 「半分こにするのは、おいしいものを食べて幸せーって気持ちだよ。私、これを明子(あきこ)と食べたときにね、真っ先に誠にも食べさせてあげたいって思ったんだ」 明子さんは恐らく、レシピに触れた際に見えたビジョンにも出てきた友人の女性のことだろう。 あのとき、美紀さんは言っていた。 磯部さんと嬉しいも悲しいもおいしいも、なんでも分け合いたい。 結婚はこうやって自分の背負ってるものや感覚を共有していくことなのかもしれないと。 ふたりを見ながら、私は大事なことを教えられている気がした。 「だから、パンケーキを食べようって誘ってきたのか」 美紀さんに向けられた磯部さんの目は、愛しいものを映すように細められる。 その視線をくすぐったそうに受けた美紀さんは、恥ずかしさを誤魔化すようにふっくらとしたパンケーキにナイフを入れた。 雪を踏むようにサクッと音を立てて露わになるキメの細かい生地の内側は、目で見てもしっとりとしている。 美紀さんはそそくさとパンケーキをひと口大に切ると、早くと急かすように磯部さんに視線を注いだ。 「わかった、わかった」 美紀さんが待ちきれないのがわかったのか、苦笑いした磯部さんもパンケーキを切って、フォークに刺し、ふたりは同時に頬張る。 モグモグと口を動かして飲み込むと、同時に顔を見合わせて笑った。 「おいしい!」 「うまいな!」 声が重なったのが面白かったのか、美紀さんと磯部さんはまた吹きだす。 ひとしきり笑ったあと、ふたりはゆっくりとパンケーキを食べ始めた。 「どこのパンケーキ屋に俺を連れていくつもりだったんだ?」 「北千住駅の商店街の中に、【ボヌール】っていう小さなパンケーキ屋があるの。すっごく並ぶんだけど、私を思い出したくなったら、そこのパンケーキを食べて」 「あ……そうか、美紀との繋がりが消えないってこういうことなんだな」 なぜか、腑に落ちた物言いで磯部さんはパンケーキを見下ろす。 「俺はパンケーキを食べるたび、これまで行った旅行先に足を運ぶたび、婚約指輪を買った店の前を通るたびに、こうして美紀と一緒に過ごした時間を思い出すんだ」 「そうだね、なにも消えない。姿が見えなくなっただけで、私と誠がお互いに特別だったことはなにも変わらないんだよ」 私もあのトマトスープオムライスを食べるたびに、茜のことを思い出すんだろうな。 悲しい気持ちはあるけれど、それだけではない。茜と重ねた時間は悲しみに勝る幸せを私の心に連れてきてくれるはずだ。 ふたりはそれから、これまでのお客さんと同じように最後のひと口を残して、思い出話に花を咲かせていた。 やがて別れの時が近づくにつれて、ふたりの口数が減っていく。 「私を愛してくれてありがとう。大好きで愛してる。これからもあなたの人生を見守ってるからね」 「俺もありがとう。ああ、言いたいことがありすぎて……なんか、詰まる」 胸を拳で軽く叩く磯部さんに美紀さんは仕方ないな、と言いたげに微笑んだ。 「じゃあ、愛してるって言って。それだけで、十分!」 「美紀……愛してる。愛してるよ、誰よりも、これから先もずっと……愛してる」 笑ったとき、結婚したとき、子供が生まれたとき、これから先になにげない瞬間に伝えられるはずだった一生分の告白を磯部さんは贈った。 ふたりはそれを合図に最後のひと口、残されていたパンケーキを口に運ぶ。 ゆっくり噛んで飲み込むまで、視線を逸らすことなく想いを伝え合っていた。 *** 本日の仕事を終えて喫茶店を出た私と那岐さんは真っ暗な森の中、家を目指して歩いていた。 見上げれば海の断面のような夜空が広がっていて、都会とはやっぱり星の見え方が違う。 人は死ぬと星になるとも言うが、あの鮮明に輝く光の中に美紀さんもいるのだろうか。 いつか見たテレビの番組で、星には夫婦星というのがあると耳にした。 なんでも旦那であるアークトゥルスが妻であるスピカに向かって急速に近づいており、6万年先にそばに並ぶといわれているらしい。 できるだけたくさん、磯部さんが美紀さんの存在を感じられるきっかけがあるといい。 そしていつか、何度目かの来世で巡り合えますように。 そう願っていると、ふいに『やっぱり、今も昔も夫婦じゃな』というオオちゃんの言葉を思い出す。 私と那岐さんの息がぴったりで夫婦みたいだと言われるのはわかるけれど、〝今も昔も〟という単語に引っかかっていた。 「オオちゃん、なんで私と那岐さんに今も昔も夫婦だなんて言ったんだろう」 つい心の声をもらしてしまった私に、隣を歩いていた那岐さんが足を止める。 不思議に思って振り返ると、那岐さんは澄んだ瞳でまっすぐにこちらを見据えていた。 「気になるか」 「……え?」 考えすぎなのだとばかり思っていたオオちゃんの言葉には、やっぱり特別な意味があるのだろうか。 「那岐さんは、なにを知っているんですか?」 「……変な夢を見るって、そう言ってたな」 唐突に話題が変わって、一瞬なんのことか頭に浮かばなかった。 変な夢……それって、私がいつも見る夢のこと? そういえば昨日の夜、打ち明けたんだっけ。 ようやく思い出して頷くと、那岐さんが近づいてきて私の目の前に立った。 那岐さんは月光のせいか、やけに肌が白く透き通っているように見える。 キレイだな……。 素直にそう思っていると、那岐さんは神妙な面持ちで口を開く。 「……あのときは話すか迷ってたんだが、実は俺も物心ついた頃から変な夢を見てた」 「那岐さんも? どんな夢だったんです?」 なにげなく尋ねた私は、次の返答に耳を疑った。 「……岩の向こうにいる、大事な人を探す夢」 「――え?」 「俺はそいつが好きで好きで、追いかけたけど……。取り返しのないことをして、そいつを傷つけた」 「…………」 「俺は夢の中のそいつじゃないけど、でも……あの胸の締めつけられるような思いは確かに感じる。だから、会いたかった」 那岐さんの手が伸びてきて、私の頬をさする。 ふと、目の前の彼が夢の中に出てきた那岐さんにそっくりの男性と重なる。 夢のことといい、まさか……私と同じ夢を那岐さんも見ていたってこと? もしそうだったとしたら、偶然なんて言葉じゃ片づけられない。 「灯、夢の中で俺にそっくりな男になんて呼ばれてた」 「……あの、信じられないと思うけど……イザナミって。でも、神様の名前で呼ばれてる自分の夢を見るだなんて、おかしいよね」 きっと毎日、黄泉平坂を歩いているせいだと自分に言い聞かせる。なぜだか不安がこみあげてきて、私は那岐さんの目が見れなかった。 「……やっぱりか。お前に懐かしさを感じたのも、気のせいじゃなかったんだな」 「那岐さん、それってどういう……」 「俺は夢の中で、お前にそっくりな女にイザナギって呼ばれてたんだ」 「えっ……!」 那岐さんはふざけているわけではなく、いたって真面目なのが表情から窺える。 「いいか、よく聞け」 目を逸らすことすら許さないとばかりに、顔を那岐さんの両手で固定される。 曇りのないガラス玉のような漆黒の瞳に、自分の顔が映り込む。 それにどぎまぎしていると、那岐さんは信じがたいひと言を放った。 「俺たちは、その生まれ変わりかもしれねえんだよ」
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