第1章 序章

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第1章 序章

第1章 序章 コンクリートが剥き出しの壁に、血(ち)飛沫(しぶき)が飛び付いた。と思うと、横一線に付いた血は波打って、下へ垂れ出して、そのいくつかは線香花火のジュクジュクした玉のようになって勢いを増した。 痛くない、といえば嘘になる。でも舌を噛んだとしたら、そこまでは痛くないかもしれない。意識は夢の中にいるようでいて、夢ではない。相当に酔ってはいる。酔いすぎれば意識が無くなるものを、今回に限っては、いくら飲んでも意識が飛ばない。現に僕は血飛沫の流れまでもを鮮明に記憶していて、赤い血が、灰色の壁に混じって臙脂(えんじ)色(いろ)になるのが見える。指を動かそうと脳に指令を出すと、指が動かないことが分かった。そういうことね、と僕はひとりごちて、お尻を少し前にずらして壁にもたれている上半身を楽にさせた。 包丁と右手をコトリと床に投げ出して、上を見る。下を見ちゃいけない。 終わりにできるのかな。何度でも生きかえってもいいような生き方をせよ、とニーチェは言った。うん、これでいい。もがいたまま時間を過ごすことはいたずらに無駄な時間になる。いや増しに高くなる壁。いつしか自分を鍛える、鍛え続けることで自分の寿命を知ってしまった。選べない生。選べない死。 『太く短い人生』なんて陳腐な言葉!  8月を過ぎた痩せた地に生えた胡瓜の細い弦がどんなにか、ひたむきで、しわがれているか。 秋の陽光のなかでプランターの下に頭を突っ込んだまま干からびたトカゲがどんなにか、やるせなく、それでいて躍動的か。 瑞々しくひたむきに生きていた時代。感性が漲って、自分の運命を懸命に探りだそうとガッついていた時代。いつだったろう?  薄れゆく意識の中に、汽車が迎えにきた。 陽炎と雑草の揺らぐ暑い暑い日のプラットホーム。 (さて、乗らなくちゃ)僕はプーマの大きなカバンを持ち上げて、 「んじゃね、さよなら!」と彼女に声をかけた。15歳の沙穂美が制服のまま、微笑んでいる。 僕は天国でこの夏の「記憶」を描いておこう、そう思った。
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