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「俺とアマテラスが拾った姉弟の片割れでな。戯れにそれぞれを引き取り、好きに育ててみることにした」
面を上げて尋ねる初老の武神に、タカギムスヒは無言で顎をしゃくって見せた。つられて館の庭に導かれたイツノヲハバリの瞳が、驚きに見開かれる。
「まさか…」
タカギムスヒは、イツノヲハバリの素直な反応に満足した。
「イツノヲハバリよ…。スサノオの血から産まれ、また息子も自らが討った神の血から得たお前には分かるまいが……。男は女で強くなるものよ。そなたの息子―――ミカヅチにこそ、俺は期待しているのだ」
そう言って大笑する高天原最高神の一柱の横顔を、イツノヲハバリは空恐ろしく凝視する。皮肉屋であるという性格以上に、この神の若き日のアマテラスとの歪んだ愛憎は、高天原の誰もが知るところであったからだ。
暗黒に閉じた視界の中、記憶を手繰って井戸のある方向へと這いつくばって進んでいく。足は萎え、上体を引き摺る腕だけが頼りだった。その腕からも、最後の力が抜けていくのを感じる。渇きは最早、それ自身の感覚すら麻痺している。
(―――いっそ、死ぬか)
ミカヅチは、闇の中ぼんやりと考える。自分たちの魂は不滅であり、たとえ死しても十年の内に生まれ変わる。記憶が引き継がれることは稀だが、自分という存在は永遠に保証されているのだ。そうであれば、日々土を舐めるこの屈辱に耐える理由も、実際のところは薄いのだ。一度死んで生まれ変わり、ほんの少しでも状況が変われば良い。
(そうだ、それが良い…)
一度思いつくと、今の肉体にしがみつく自分が莫迦莫迦(ばかばか)しくなった。視界だけで無く、意識そのものが急速に真の闇へと沈んでいく。そして全てを放棄しようとしたとき、しかし―――。
「―――水だ」
「…?」
土にまみれた頬のすぐ傍に、冷ややかな感覚―――水の香り。そして僅かな人肌の温もりと、微かな花の香り。それらが一度に、ミカヅチの闇に侵入した。暗闇に差した一条の光に導かれるように重い瞼が開かれていく。
「呑むなら早くしろ……。指の隙間から、零れ落ちてしまう」
必死で見開いた狭い視界に、少女がひざまずき、掌に水を満たして差し出していた。肩口で短く切り揃えた黒髪の間のその顔は、何処か怒っているようだった。
「済ま……ない…」
涼風湛えた少女の水に、唇を近づける。けれど瞳は、少女の強い眼差しから逃れる事が出来なかった。
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