第1章

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「翡翠鏡綺譚」 序 「ふぅ…」  じゃぶ、とぐずついた音を立てさせて、珠代(たましろ)綺名(あやな)は一休みすることにした。曲げっぱなしの腰をぐいっと伸ばして、額の汗を拭おうとして…慌てて止めた。泥から引き抜いた腕は、当然泥まみれだ。仕方が無いので、袖まくりした制服の、汚れていない上腕の辺りで苦労して汗を拭う。頬に張り付く前髪がうっとおしい。本来、彼女はおでこに髪がかかるのは好きではない。前髪を長く伸ばした今の髪形も、仕方なくそうしているだけのことだ。 「アヤ、あったぁー!?」  秋の終わり、十月の夕焼け空の下、一面の泥土。窮屈な視界に、親友の二坂(にさか)崎子(さきこ)の声が響く。顔を上げると、バイトで巫女服を着込んだ少女が、池を取り囲む土手の上からぶんぶんと手を振っている。 「ないよ、鏡なんて…ッ!」  多少いらついた叫び声を返して、溜息を吐きつつ瞳を下に向ける。視界一面、泥沼と呼ぶのに相応しい。水を抜いた池の成れの果てだ。そのぬかるみの中、水無瀬市の青年団やらお年寄りやらに交じって、綺名は腰を折って泥をさらい続けていた。 (見つかりっこないよ、ね…嫌だな…)  綺名は今更ながらに、親友に泣きつかれて付き合ってしまった自分を後悔した。水無瀬市の年中行事の一つ、「鏡祭」。自称霊感ゼロの崎子は、皮肉にも代々このお祭の巫女役を担う家の生まれだった。綺名はこのお祭を個人的に避けていたのだが、高校入学以来何かと世話を焼いてくれている友人の頼みであれば、断りきれなかったのだ。 (えーと…。そもそも「鏡祭」とは…)  一休みしながら、綺名は自分が知っているだけの「鏡祭」の情報をなぞってみる。民話や伝承をはじめ、こういう郷土文化にはちょっと詳しいのだ。  ―――「鏡祭」。水無瀬市南部、海岸近くの塩田の中にあるその名も「鏡池」の水を一年に一度抜き、遠い昔からそこに沈められているという鏡を探す行事。その鏡がどういうものであるのか、また鏡を見つけたらどうなるのか、綺名たちは知らされていない。いや最早、誰も知る者が居ない。ただ、発見された鏡は池のほとりの、何故だかあんまんがうず高く積まれた祭壇に一月の間海に向けて奉られ、その後再び池へと投げ込まれることになっていた。
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