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鏡に映っている。自分が。
綺名は、呼吸すら忘れて鏡面に見入った。微かに光を放つように見えるそれには、不自然なほど泥はまとわりついていない。目を凝らす。
「誰…?」
いいや、自分ではない。
自分の髪は肩まで届くか届かないかだが、鏡に映る誰かのそれは、背中に届いているようだ。そして自分はこうやって瞬きも忘れて見つめているのに――― 鏡の中の女性は、切なげに目を閉じ、そして静かに涙の雫を零している。
(一体…?)
鏡がその前に在るもの以外の存在を映し出す。それは有り得ない光景だった。だとすれば、この女性は元々鏡に彫り付けられたレリーフなのだろうか。けれど、ならば、どうして。
―――どうしてそのレリーフは、今ゆっくり口を開こうとしているのか。
それを見とめたとき、魅入られたように動きを止めていた綺名の脳裏に恐怖が弾けた。それでも鏡を取り落とす事は出来ず、首だけ巡らせて崎子を呼ぼうとする。
「きゃっ…!?」
ド…ン。
声を出そうとした瞬間、ごく近くから地鳴りの音が響いた。それは一瞬だったが低く重く、思わず目を閉じる。そして暗転した視線の端で緑の柔らかな光が微かに灯り、それも一瞬で消えた。同時に、両手の重みも失われている。
「……」
短い予感に打たれながら瞳を開け、視線を手のひらに戻すと翡翠鏡は既に跡形も無く消失していた。空虚な手の内を呆然と見る。一つの声の残照が、その手に耳に、確かに残っていた。
『やっと、逢える…』
それが、緑光が消え失せる刹那、綺名の耳に届いた言葉だった。
1章
一
(疲れた…)
綺名は水無瀬市の狭い県道を、北へ北へととぼとぼと歩いていた。時刻は午後八時を回ったあたり。すっかり日は落ちてしまっている。道のたもとを流れる小川の音が、不機嫌な綺名の心をさかなでしていた。
市街地を離れ、たんぼの中を用水路に沿って伸びる道には人影一つ、車の一台すら見えない。道のたもとを流れる小川の音が、不機嫌な綺名の心をさかなでしていた。
結局、鏡は再び見つかることはなかった。その後、祭に参加した数少ない十代として馴れない戸外の宴会に付き合わされ、終バスの時間を理由にやっと解放された。
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