第1章

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 けれど綺名は、自宅方面の終バスをぎりぎりで逃してしまっていた。日曜のダイヤが若干早い事を失念していたのだ。普段、陽が落ちた後まで市街地にいることは極端に少ないのが災いした。高校生にタクシーを拾うほどの財力があるはずも無く、彼女は徒歩で家路に着くことになった。視線を上げると、前方にはぽつりぽつりと街灯が、百メートルほどの間隔で、いかにも頼りなげな灯を点している。 (あの頃はまだ街灯も無くて、もっと暗かったっけ…)  彼女が一番嫌う事態になってしまっていた。心細さが渦巻いて、思い出したくもない闇への恐怖の根源を思いうかべてしまう。  五年前、幼い綺名は今日と同じ鏡祭の夜に暴漢に襲われ、そのとき一緒に居た父は、彼女を守ろうとして命を落としていた。それ以来、暗い夜道はトラウマに近い存在になってしまっている。 (思い出しても仕方ないよ、ね)  何も無いはずだ。あのような忌まわしい事件が、そうそうあってたまるものか。そう割り切って足を機械的に動かし、恐怖を自覚する頭は夜道以外のものに占領させることにした。幽霊の、正体見たり枯れ尾花。何か別の事に考えを巡らせていれば、疑心暗鬼も去るだろう。元来内向的な彼女は、考え事が好きな性分なのだ。  思考に移る一瞬前、彼女は何かを思い出したように額に手を触れた。長めに伸ばした髪の下、それは当たり前の肌の感触を返してくる。 (ここなら大丈夫よね…どうせ誰も居ないんだし)  自分にそう確認して、綺名は体への注意を交差させる足だけに残し、心を深く沈めた。  あの、鏡。  最初に心に浮かんだのは、やはりあの奇妙な鏡のことだった。鏡祭りの中、ひととき彼女の腕に抱かれ、幻のように消えた、欠けた翡翠鏡。 (それにあの女性…)  そして、鏡に映し出された女性。肩にかかる漆黒の流れ、その白い頬を伝う涙の色。思い起こせば、あれだけ鮮やかに色付いていたものが、レリーフの類であるはずがない。  鏡に触れた手をまじまじと見つめてみる。手のひらは何も語らない。あのひとときが嘘だとも真実だとも、伝えてくれはしなかった。  …ぴしゃり。 「…ッ!」  綺名の思考が螺旋を描き始めたとき、背後で闇が揺らめいた。  彼女の耳に、何かの水音が確かに届いた。締め出すことに成功していた恐怖心が急速に蘇る。五年前の記憶が一瞬脳裏をよぎった。しかし、にわかには振り返らない。
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