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道のすぐ傍を流れる用水路の水が跳ねただけだ。そう整理して、再び思いを巡らそうとする。だが足が速まるのは止めようがない。
……べちゃり。
間髪入れず、もう一度音が鳴った。今度は濡れた足音のようだった。そう、まるで小川から何かが這い上がってきたかのような。
(枯れ尾花……)
恐怖を追い出すかのように瞳をきゅっと閉じて、念じるように呟く。先ほどまで見つめていた手のひらを、スカートのポケットへと滑り込ませる。軽く探ると、いつもそこに御守り代わりに忍ばせてある、父の形見を握り締めた。もちろん、足を止めてはいない。
…べちゃり。
だが、泥を踏むような音は、硬く閉ざされた瞼の闇に再び響いた。そう、よりいっそう、近く。
「……」
綺名は歩みを止めた。父の形見をもう一度堅く握ると、その鋭い欠片が手のひらを軽く傷付けた。痛みが、今は彼女に勇気を与える。見えない恐怖に怯えるよりも、それと相対することに決めた。何、間抜けな猫が川に落ちて這い上がっただけなのに違いない。
彼女は瞳を開けると一息に振り向いて―――。
そしてそこには、影一つ無かった。ただ均質な闇を、さらさらという穏やかな小川の流れだけが支配している。
「正体見たり、か…」
安堵する心とは裏腹に、何処か失望が入り混じった口調で呟く。先ほどまでの自分の取り乱しようが恥ずかしくなるような、静かな田園の光景が眼前に広がっている。念のため、周りを取り巻く田畑にも瞳を巡らせてみる。それでも、怪しい影は認められなかった。
しばらくそうして周囲の様子を窺った後、綺名は北へ、自宅の団地の方角へと向き直った。気のせいだったにせよ、闇に長居する理由は彼女の何処にも無いのだ。綺名は、次の街灯へと向かって駆け出した。
綺名が二つ三つ先の、街灯の光へとその姿を溶かしていった頃。
一つの影が、道のたもとの小川から、うずくまった体を伸ばした。影は漆黒の学生服を着込み、首から口元にかけてくすんだ朱色のマフラーを巻いた華奢な少年のものだった。ただ異様だったのは、その両腕に握られたもの。
彼は左手に古風で長大な太刀を引っさげていた。その刀身はぬらぬらと月の蒼貌に照り映え、何ものかを断ち斬った直後の妖気を漂わせている。骨董品の類では有り得ない。
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