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そいつは、片方の目が潰れた龍の顔をしていた。身の丈は二メートル近くあり、硬質な光を照り返す緑の鱗に覆われた体には平安武士のような、朱の刺繍も鮮やかな鎧を纏っている。手にした刀はそりが浅く、刀身が太い。それは打刀(うちがたな)―――いわゆる日本刀普及の以前に使われていたもの、肉を切るよりも兜ごと頭蓋を叩き割るために造られた剛剣―――正真正銘の「太刀」そのもの。
綺名は、かつて母から夜伽に聞かされた、人魚の肉を喰らってこの地に千年生きる侍の昔話を思い出していた。伝説は今、現実の恐怖となって綺名を襲っている。必死で這いずりながら、恐怖から目が逸らせない。
「あ…うッ!」
その恐怖は綺名のすぐ傍に腰を落とすと、あろうことかびっしりと緑の鱗に覆われた腕を伸ばし、彼女の額の髪をかきあげた。それはむしろ優しい手つきだったが、身を竦ませた綺名には、額に触れる手のひらの、ザラザラした感触しか感じられなかった。
「『翠鱗(よくりん)』はまだ顕(あらわ)れてはいない、か…」
そいつは、髪がかきあげられて利発そうな額を覗かせる綺名の顔をまじまじと見つめた。綺名は人語を放つその咽喉に、蛇のように先が二つに割れた舌を見た。けれどその声色は不思議と人間のものと変わらず、情のようなものすら通わせている。
「…だが赦せ…。これも、我が妻のためだ」
やがてそいつは、瞳孔が縦に走る爬虫類の一ツ目を淋しげに伏せると、躊躇いを振り切るかのように立ち上がった。そして鎧の間に見え隠れする、異様なまでに引き締められた腕の筋肉を一層堅くして、太刀を握った手を高く高く差し上げる。闇に映えるその刃は、綺名の父親の血の紅をぎらぎらとまとわりつかせていた。
「…お父さぁんッ!」
身を堅くして、大好きな父の名を呼んだ。腕で頭を抱え込んで思いっきり目をつむる。しかし彼女が打ち震えた最後の瞬間はやって来ず、かわりにそいつの驚愕の声が響いた。
「貴様、まだ動けるのか!?」
そいつと誰かが揉み合う音が、視界を失った綺名の耳に続く。舗装されていない道路に巻き起こった土埃が鼻をつく。彼女は、恐る恐る目を開けた。
「……お父さん!?」
彼女の目の前で、先ほどまで倒れていた父親―――珠代岳弥(たけや)が、そいつと組み合っていた。
「チィッ!」
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