第1章

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 そいつは力任せに、組み付く岳弥を振りほどこうとした。すると岳弥は、それよりも早くそいつから飛び退いてみせた。 (……!)  綺名は息を飲んだ。父が綺名から反対方向に跳んだのは、明らかにそいつの注意を彼女から逸らそうとしたからなのだろう。だが父は虚空でトンボを切りながら、四、五メートルも文字通り「飛び」退いたのだ。岳弥はその当時、未だ三十の半ばを過ぎた頃だったが、それほどまでの運動能力を持っているはずがなかった。運動会の父兄参加競技でも、いつもビリの父親なのだ。  人間離れした動きに驚愕したのは、一人綺名だけではなかった。龍の頭を持ったそいつもまた、奇妙に人間臭い呆然とした表情を見せていた。だがその驚きはやがて、彼の中で何かの符合に辿り着いたらしい。見開かれた一つ目が徐々に細まると、鋭い牙を覗かせる蛇の口は、いつの間にか獰猛な笑みを刻んでいる。 「その身のこなし…。そうか、貴様か!」  何処か嬉しげな響きは、まるで旧友に逢ったかのようだった。岳弥は、直立したまま微動だにしない。よく見ると、最初にそいつに襲われた際の腹部の傷は、未だどくどくとシャツを血に染めている。そしてその手には、いつの間にか小太刀が逆手に握られていた。その異様な父の姿は、綺名の瞳に、まるで見知らぬ人間であるかのように映った。 「お前にはこの目の借りがあったな…。嬉しいぞ、こんなところでまみえるとは!」  龍頭の武士は潰れた右目に手を置きながら、凶悪で楽しげな咆哮を搾り出した。受ける岳弥は、そいつに向かって腕を差し伸べ、上向けた手のひらでくいっと指で手招きをする。―――明らかな挑発。綺名がその意味に気付いたとき、敵は既に刀を振り上げて父に向かって駆けていた。  それからの事は、綺名にはまるでお伽噺そのもののように記憶されている。  蛮声を張り上げて父親に刀を振り向ける龍頭の武士と、それをまるで忍者の如き身軽さでかわし、小太刀で反撃を加える岳弥。柔よく剛を制す。膂力では明らかに龍頭の武士が勝っていたが、父は身軽な動きで対抗した。岳弥が繰り出す小太刀は、確実に異形の敵に傷を刻んでいく。 「そうだ、そうでなくては…! 百五十年ぶりの再戦だ、楽しませろ!」  だが龍頭の武士は、むしろ傷の痛みを喜んでいるかのようだった。好敵手との戦いに心底陶酔し、喜色を浮かべては剣を振る。岳弥は無言で跳びすさる。
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