第1章

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 肩越しに少年を見下ろす少女の瞳の色が、紅から黒へと変わっていく。 「そうだ、雫。もう戦わなくていい……。君はもう、人を殺さなくていいんだ……!」  いつの間にか豪雨(※スコール)は上がっていた。黒い雨雲は過ぎ去り、戦場の夜空には、嘘のように澄んだ星空が広がっている。 「戦争が終わった……戦わなくていい……人を殺さなくて……いい…………」  雲一つ無い夜空に、少女の薄い硝子のように震える声が響く。 「だったら……。戦争が終わったら、私は一体…………殺人人形の私は一体、何をすればいいんですか…………?」  後に、戦史は語る。指揮・命令系統の崩壊後、外部から断絶した状況で自活自戦の戦闘を継続していたフィリピン・ルソン島の日本兵が戦争の終結を知り、投降したのは、終戦の一カ月後のことだったと。  これは、その間に起こった、名もなき遭遇戦での出来事だった。 1.遺されたものたち  第二次世界大戦の終戦から、およそ七十年後――二十一世紀も十余年が過ぎたころのことである。  コインロッカーのように整然と鉄の扉が居並ぶ銀行の一室で、少年はスーツ姿の男から二つのものを受け取っていた。 「四条谷にあります土地・家屋の権利書と、こちらの鍵束。お祖父さまの貸金庫に保管されていたものは以上です。こちらが貴方に相続されます。もっとも土地・家屋の登記は随分前に電子化されていますから、その権利書は形式的なものです。登記変更は私の方で既に行っています」 「……これだけですか?」  少年は、ドイツ人だった祖母譲りの茶色がかった髪を落ち着きなく片手でいじりながら、我が手に渡ったボロボロの大きな茶封筒と、古びた鍵束を、わずかに眉を顰めて見下ろしている。 「はい。遺言に示されている通り、祖父・高町幸人から孫・高町樹に相続されるものは、これが全てです。失礼ながら、樹さまのお祖母さまとご両親は他界されていて、他に尊属の方もいらっしゃいませんので、相続争いは置きませんのでご安心を。金銭・債権の相続はありませんが、先にお伝えしました通り、よくご存知の方が後見人に指定されていますので、生活の心配はありませんよ」  お金のことじゃない――得意げに余計な気を回す亡き祖父の代理人の弁護士に、少年、高町樹は苛立った。
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