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2.OLC
「なぁ、いいだろ?」
比呂の猫撫で声。
「ダメ!」
私は容赦なく、言った。
「もう、帰って」
「冷てーの……」と、子供のように口を尖らせる。
こういう時、関係を長く続け過ぎたと感じる。
「比呂」
「――わかったよ」
観念した比呂が、のそりと立ち上がる。
今夜は出かけるから来ないでと言ってあったのに、昨夜も当然のようにやって来て泊まった。午後を過ぎても帰ろうとせず、私の帰りを部屋で待つと言って、きかなかった。
たいしたことではない。
数時間後には帰って来て、比呂の眠るベッドに潜り込み、明日の夜まで一緒にいればいいのかもしれない。
けれど、それは『恋人』のすること。
『愛人』には似合わない。
「千尋」
ジャケットを羽織りながら、比呂がじっと私を見た。
「なに?」
グイッと腰を抱き寄せられ、キスをされた。
「グロスが落ちる!」と、私は比呂の肩を押し退ける。
もちろん、びくともしない。
「仕事ではこんなんしないよな」と言って、唇を舐める。
「仕事でこんなんは必要ないもの」
「魅せたい男でもいるのか?」
グロスを舐めとるような、深いキス。グロスどころかファンデーションまで剥がれそうだ。
私は口の中で暴れる比呂の舌を、軽く噛んだ。
「もうっ! やめてってば」
口の周りがベタベタする。手の甲で拭った。
「愛人を束縛しちゃいけない?」
「え……?」
比呂の口から、『愛人』と言われるのは初めてだった。
私は自分たちの関係を忘れないために、よく言うけれど、比呂はいつもそれを嫌がっていた。
言葉に気を取られた隙を突くように、再び腰を抱き寄せられた。けれど、比呂の唇が向かった先は鎖骨の下辺り。
強く唇を押し付けられる。
「比呂!」
さっきとは比べ物にならない力でホールドされて、身動きできない。
やっと解放されて、比呂がニッと笑った。
「その服、胸が開きすぎだから」
ハッとして胸元を見ると、赤い痕が三つ、ハッキリと残されていた。
「ちょっと!」
「ほら。早く着替えなきゃ遅れるぞ?」と、比呂はいたずらっ子のように笑った。
文句を言うのを諦めて、私は寝室のクローゼットを開け放った。
玄関ドアが閉まる音が聞こえた。
比呂が帰ったのだろう。
胸が、苦しい。
今まで、他の誰に言われても全然気にならなかったのに。
比呂の声で『愛人』と言われたことが、呼吸を重くする。
ゆっくりと、別離の刻が近づいてきているのだと、感じた。
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