夜の灯火

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 周知の事実、重々承知。しかし、ヘリットはどうしても今出かけなくてはならない。 心臓が激しく脈打っていた。闇に響く自分の足音に怯えながらも、ヘリットは段々早足になる。 息が切れるのは加齢のせいか。昔なら、一日中町を歩き回ってもくたびれることはなかった。 少しの危険も逃しはしまい。緊張する頭の片角で、しかし、ヘリットは考える。 そもそも頭の正気を問うのなら、これまでの自分の方がよっぽど正気ではなかったのではないかと。煤けた市街地の片角で、西日の向こうに遠ざかるカラスの声を聞ききながら閉まりゆく店々を眺めていたあのときから、自分は既に狂い始めていたのだろうと。 *  俺はきっとパン屋になろう。 ヘリットがそう志したのは、まだ彼が十にもならない年の事だった。 所々すり切れた上着に、左右の足で丈が違うズボン。手に持った革袋には金など一銭もはいっていなかったけれど、家路を急ぐヘリットの足取りは軽かった。 そうだ、俺はパン屋になろう。 彗星のように現れた目標が、胸の中で尾を引いて光っていた。     
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