【3】

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 遊び慣れている広武の事だ。こんな歯が浮くようなセリフを真面目な顔で、しかも男相手にピロートークの様なノリで囁くことなど造作のないことだろう。甘さを含んだ低い声で囁かれれば、ここが応接室であろうとも落ちない者はいない――そう、静夜に思い知らせたかっただけなのだろう。  それなのに……心臓は高鳴り、きゅうっと締め付けられる。微かな痛みは遠い昔、まだ純粋だった頃の自分を思い起こす。  しかし今は、そんな感傷に浸っている状況ではない。危うく彼のペースに巻き込まれそうになった自分を奮い立ったせ、静夜は努めて落ち着いた口調で言った。 「――あのさ。そのセリフで何人のバカが落ちた?」 「さあな……」  そう言いながら、大きく開かれた静夜のシャツの襟元に顔を寄せ、くっきりとカーブを描く鎖骨に唇を押し当ててから、一度だけスンッと鼻を鳴らした。  薄いシャツの生地を押し上げるように尖ってしまった乳首に指先を這わせ、広武は堪らないというように大きく息を吐いた。 「精液の匂いがしないな……。客を取るのをやめたのか?」 「そんなこと、どーだっていいだろ? 話を逸らされるの、俺、一番嫌いなんだよね」  彼の肩に手を掛けて押し退けようとする静夜の耳朶を、広武の歯がやんわりと噛み、その動きを制した。 「――いい子だ。湊太(そうた)」  不意に鼓膜を震わせた彼の声に、腰の奥から背中にかけて今までにない甘い痺れが駆け抜け、混乱ばかりの静夜の脳を激しく震わせた。 (なんで……俺の名前を?)  男娼を生業とする者は、本名を客に明かさないのがルールだ。トラブルが起きた時に個人情報の流出を防ぐことはもとより、法に触れるギリギリの仕事ゆえの理由がある。  だから静夜の本名は、経営に携わる者以外のスタッフさえも知ることはなかった。もちろん、静夜も他のスタッフの本名を知ることはなかったし、知ろうとも思わなかった。  これほど厳重に守られてきたはずの本名を、一夜限りの客が知ることなどまずあり得ない。  彼が名を知っていることにも言葉を失った静夜だったが、何よりその響きに驚きを隠せなかった。  ここ何年も恋人という存在は不要なものだと思って来た。だから、性欲が満たされれば感情など煩わしいだけのモノだと言い聞かせて来た。
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