独言

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「あ、」 不意に主人が驚いたような声を出したので、遠巻きに眺めていた私は、すぐに駆け寄った。 見ると、主人の周りを一匹の蝶が羽をはためかせて飛んでいる。──どうやら、部屋に入り込んで来たようだ。窓も壁も殆ど無いような部屋であるので、こんなことは左程珍しくもなかったが── 『アゲハ蝶ですね。』 私は、それが主人の一番好きな種類の蝶であることを知っていたので、そう声をかけた。 「そうだね。……良いアイデアは舞い込んで来なかったけど、代わりにこの子が来てくれた。」 そう言って、主人は苦笑する。 「──さて。そろそろ気分転換に、散歩にでも行きたいな。UM−06、お願いできるかい。」 『ええ、勿論ですとも。参りましょう。』 そして私は、いつものように主人を車椅子に乗せると、それを後ろから押して、ゆっくりと歩き始めた。主人は歳のせいか、立つことも歩くことも、今はままならない。自室の安楽椅子に腰掛けている以外の時間は、こうして殆ど車椅子上で過ごすのだった。 『今日は良いお天気ですね。』 「そうだね。春らしい良い陽気だ。」 主人は、雲一つない淡青の空を見上げ、少し眩しそうに目を細めた。そして、思いついたように呟く。 「公園の桜は、もう咲いているのかな。」 『どうでしょうね。見に行きましょうか。』 「うん。お願いするよ。」 私と主人は、共に散歩をしながら、いつもこうして会話を交わすのだった。──花のこと、月のこと、虫のこと──この世界のあらゆる「美しい」もののことについて。「美しい」という感覚については、私は未だ不勉強ではあるが、おそらく「好ましい」の極致なのだろうと思う。ともかく私にとっては、そんな主人との時間こそが、最も「好ましい」時間だった。
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