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造物症
真白な壁面にかけられた時計を見やる。今日の診療も直に終わりだ。私は整理でもしようかと、カルテの束を手に取った。彼が現れたのは、そんな時分のことである。
本日最後の患者だ。そう考えながら私は、「どうぞ。」と入室を促した。
入って来た男は、若く、端整ではあるものの、酷くやつれた顔立ちをしていた。何より、怯えきった目付きと、余程慌てて来たのか息が乱れている様子から、只事ならない印象を受ける。その青年は、棒立ちになったまま、部屋の一点の暗がりを見つめていた。私も釣られたように、同じ一点を見つめる。すると、何か動くものの気配があった。──蜘蛛か。珍しいな。
ゆっくりと一匹の大きな蜘蛛が暗がりから這い出てくる。青年はそれを見ると、一層怯えたような反応を示した。蜘蛛恐怖症の気があるのかもしれない。
私は彼に着席を促し、少し落ち着くまで待ってから、ゆっくりと語りかける。
「あなたの今の精神面について、症状や、悩んでいること、困っていること、何でも良いのでお聞かせください。話せることからで構いませんから。」
そして、暫し躊躇った素振りを見せた後、ついに彼は口を開いた。
「本当に馬鹿げた話なのですが……」
自身には、昔から幻覚的な気質がある、と青年は語る。
「幼い頃は、幽霊の姿をよく見ました。僕は生来臆病な性格で、常に何かに怯えていた。」
「……眠る間際の暗がりが怖かった。例えば、天井の片隅、衣服箪笥の影、そんな所に何か恐ろしい幽霊が潜んでいるのではないかと、その姿を脳裏に描いては、ひとりでに恐怖していました。そうして堪え兼ねて、その方を向く。すると、必ず、本当に居るのです。幽霊が。それも、自分が頭の中で描いた通りの姿で。」
「──ええと。そう、それから、蜘蛛です。僕は物心ついてから今まで、蜘蛛に対して異様な苦手意識があるのです。自分にも理由はよく分からないのですが、どうにもあの形が駄目なようで、見てしまうと堪らなくなる。」
「時折、手の甲や、首、身体の何処ががむず痒いような感覚を覚える時がある。誰しも、そういう時はあるのかもしれません。兎に角僕は、そこに蜘蛛が這っているのではないかと恐怖する。そして視線を移す。すると矢張りそこに這っているんです、蜘蛛が。」
「そんな事があまりに多いので、ふと僕の中にある疑念が生まれました。」
「もしかすると、自分が頭の中に描くことで、現実にその存在を生み出してしまっているのではないか。」
「くだらない妄想とお思いでしょう。けれども確かに、意識する度、恐怖する度に、蜘蛛が増えていくのです。今では、僕の部屋には数百匹余りの蜘蛛が這いずり回っているのですよ。」
そこまで話し終えると、青年は、伏していた顔を上げ、初めて真っ直ぐに私の目を見据える。その目は一点の光も宿しておらず、ただ黒く淀んでいた。私は自然と、ただ無言に頷いていた。青年は、語り続ける。
「それから、こんな事もあるのです。小学生の頃、友人の家に仔猫を見に行きました。仔猫は本当に愛らしく、友人によく懐いておりました。僕は心底、その友人を羨ましく思った。その帰り道、一匹の仔猫が僕の足に擦り寄って来ました。友人の猫と全く柄をした猫でした。その猫とは今でも一緒に居ます。家に帰れば、甘えたように鳴いて、僕の元に来るのです。」
「他にも、例を挙げればきりがありません。例えば、これは今日の昼下がりのことですが。交差点ですれ違った人が、冷たそうな飲料の入った瓶を手に持っていました。炎天下、酷く喉が渇いていた僕は、自然と、その瓶に目が行った。直後、右手にひんやりと冷たい感覚がありました。そして、何故か自分のもその瓶を握っていたのです。……もう例を出すのは、これくらいにしておきましょうか。きりがないので。」
青年は、鞄から涼やかな色の瓶を取り出すと、軽く振って水音を鳴らし、また鞄へとしまった。そして、力なく溜め息を漏らす。
「──先生、僕は考えてしまうのです。僕の内なる衝動、恐怖や渇望に起因するそれが、何かしらの存在を外部ものとして生み出しているのではないだろうかと。しかし、結局はそれらも自分の幻覚に過ぎず、実際には空虚なのかもしれないと。」
語調を強めながら、青年は語り続ける。
「ならば、自分にとっての現実とは一体何なのでしょう。家族や友人、かけがえのない人、その存在すらも疑えばきりがない。もしかすると自分は、ただ空虚の中に生きているだけなのではないか。そんな不安が募って、ついには爆発し、気が付けば走り出していました。──馬鹿げた話、そう馬鹿げた話です。それでも、誰か話を聞いてくれる人が欲しかったのです。そして、走っていました。あてはない。何処をどう走ったのか覚えてもいません。群衆を掻き分け、時に誰かにぶつかり、幾度となく舌打ちをされて、気が付けば此処に居ました。」
話し終えると青年は、少し満足気に笑みを浮かべた。しかし、その瞳には、矢張り正気がなかった。
私は、青年の纏う淀んだ空気に引き摺られて行きそうな、危機感を覚えていた。──不味いな。冷静にならなければ。
結局、彼に対して明確な診断を下すのは、次回以降に持ち越すことにした。それでも青年は、「話を聞いて貰えて、本当に良かった。有難うございました。」と、律儀に礼を言って去っていった。
青年が退出すると、室内が明るくなったような心地がした。四方の真白な壁に反射する光が、眩しいまでに感じられた。私は、ふうと、溜め息を漏らす。
その時、ふと、先程青年の発した言葉が引っかかった。
── 誰か話を聞いてくれる人が欲しかったのです。
──気が付けば此処に居ました。
足元が音もなく崩れていくような、不気味な感覚。嫌な予感。いや、まさか、あの患者の狂気に呑まれてしまっているのか。そうだ、落ち着け。私、私は違う。私は此処に確かに存在している。私は医者で、経歴だってある。患者からの信頼も厚い。私は……私は……。芽生えてしまった疑念は、渦を巻きながら膨張し、全身を駆け巡る。
縋るように机上のカルテに手を伸ばした。しかし震える手は、それらを全て床に撒いてしまう。一番上の、先程の男のカルテが軽やかに翻った。
残る他のカルテは──全て白紙だった。
それを見て、「ああ、そうか。」と言葉が零れた。
白紙の上を一匹の蜘蛛が空虚に這っていた。
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