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もう一度、こわごわとハルを見た。ハルは促すように、頷いた。
「おばあちゃんが、おじいちゃんのことを、ひとつも憶えていないって、母さんが云ってたのは、本当なの?」
「ええ、本当です」
微笑みを泛かべたまま、ハルははっきりと肯定した。無意味に蛇口から水が流れていっているのに気附いて、秋鹿は止めた。手が顫えた。
「でも、前におばあちゃんは僕に教えてくれたよね。僕のおじいちゃんは、お酒が苦手で、良く食べる人だったって。ご飯も、甘いものも大好きで、良く働く人で、良く笑う人だったって……」
「ええ、そうでしたね」
ハルは静かに答えた。脱いだミトンを握りしめる手が、わなないている。
「それなら、やっぱりおばあちゃんはおじいちゃんのことを、ちゃんと憶えているんじゃないの?」
祈るように、秋鹿は訊ねた。いいえ、と、ハルはかぶりを振る。
「いいえ、秋鹿。私は本当に、何も憶えてはいないんです」
「どうして……?」
「仕方の無いことだったんです」
痛みを怺えるように、ハルは瞼をつむった。忘れたくて忘れた訳ではないことが、秋鹿にも判った。一体、何があったと云うのだろう。
「ただとても大切だと云う気持ち、愛おしいと思う気持ちだけは、慥かに私の中に残っているの」
ハルの目には泪のきらめきがあった。秋鹿は無言で頷いた。
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