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「えっと、_____こんにちは。」
「こんにちは……。」
女の子は消え入りそうな声で言って、顔を上げた。
目の下にくまが出来ているけど、顔立ちは整っている。
年齢は、多分小学校高学年か、中学生くらいだと思う。
「えーっと、初めまして……。」
女の子が黙っているので、こちらも声が尻すぼみになってしまう。
「初めまして。」
女の子は私の言葉をオウム返しにすると、そのままジッとこちらを見ている。
何も話さないので、会話のきっかけがつかめない。
「えーっと、その、悪夢を……見ているんだよね?」
「うん、そうだよ。……いろんな人に相談したけど、治んないの。」
「どんな悪夢なのかな?教えてもらってもいい?」
私が尋ねると、女の子はぴょこんと椅子から飛び降りた。
「話したら、悪夢、見えなくなる?」
「え?えーっと、ほ、保証は出来ないかな……。」
真面目に見つめられて、私は思わず言葉に詰まった。
嘘は言いたくないけど、本当の事言ったらこの子、がっかりするだろうし……。
「だ、だけどさ、誰かに話したら少しは楽になると思うよ。」
「嘘だよ。そう言われたから友達に話したのに、友達にからかわれたし、今はもっと悪夢がひどくなっちゃったもん。」
「からかわれたの?」
女の子は黙ってうなずいた。
「そんな……。」ひどいことが。
「でも、私は絶対にからかわないよ!ねえ、話してくれる?」
「からかわないの?初めて会ったのに?」
「うん。それに、悪夢は誰だって見るよ。それをからかうなんて、ひどいじゃない。そのうえ、友達なんでしょ?」
「う、うん……。」
「私が聞いてあげる。笑わないし、悪口も言わないから。それで、悪夢がなくなっちゃうとは限らないけど、出来る限り力になるから。」
「本当だよね?嘘じゃないよね?」
「本当だよ、約束する。」
「本当だよね……?」
女の子の声は消えてしまいそうだった。
けれども私が返事をする前に、女の子は勢いよく顔を上げる。
「じゃあ、話すよ。あのね、目が覚めたら、すごく広い街にいるの。信号が青から赤に変わって、また青に変わるのがすごく早いの。それで、大きなビルが周りにたくさんあって、押しつぶされそうな感じで。人がたくさんいるの。いろんな人が周りを歩いているんだけど、すごくたくさんいて、洪水みたいなの。流れるプールで、流れに逆らって泳ぐ子がよくいるじゃない。私もそんな感じなの。ちょっとでも気を抜いたら、向こう側に流されて行きそうな感じなの。車がたくさん通って行って、よく渋滞にならないなって、そのくらいたくさん通るの。ビュンビュン走って行くの。すきまを少し開けて、車が次々にすぐ隣を突き抜けるの。どこを見ても、すいてる場所なんかないの。人が溢れてて、車が溢れそうで、ビルが目の前を遮って、空も見えないくらい高層ビルがすごいの。大きなお店がずらずら並んで、人が慌ただしく行ったり来たりするから、自動ドアが閉まれないの。」
そこで、女の子は息をついた。
「それが、悪夢?」
「そう、悪夢。」
「そっか、けど、それは多分、都会になれていないからなんじゃない?周りにいる人にとっては当たり前のことでさ。だから……。」
「違うの!」
突然女の子が声を出した。
今にも泣きそうな顔で。
「違うって、でもさっきこれが悪夢だって……。」
「悪夢だよ。すごく怖い悪夢、けど、確かに私は、都会にも行った事があるけどまあまあ田舎に住んでるし、そりゃあ人に押しつぶされそうな感覚は怖いけど、どこからこれだけ人と車と建物が湧いてくるんだろうって思うけど、本当に怖いのはそこじゃない。まだ続きがあるの。」
「続き?」
「そう。あのね、それだけたくさん人が通ってるのに、それだけたくさんの車があるのに、それだけたくさんの建物があるのに、それだけたくさんの気配が溢れて、今にも落ちていきそうで、飲み込まれそうなくらいなのに。それだけたくさんの、命があるのに。」
女の子は叫ぶように、最後の言葉を絞った。
「音がないの。」
「え?」
「音がないの!」
女の子が繰り返す。
その目から涙がこぼれていた。
「車が走っていればタイヤと地面がこすれる音やエンジンが、頭の上を飛行機が飛んでいれば轟音が、建物があればドアが開閉する音や、お店があればお店の人の声、人込みがあればかならず誰かが声を出して、話して、叫んでる人も大勢いるはずなのに、話し相手がいなくったって電話してる人、そうだ、スマホでゲームしてればその効果音だって、イヤホンがなければ聞こえるはず。けど、何の音もしないの。声もエンジン音も聞こえない。それがすごく怖かった。たくさんの人がいるのに、誰も何も話してなくて、耳が聞こえなくなっちゃったみたいで、足音とかも聞こえなくて。けど目を開けたらちゃんと耳は聞こえてる。夢の中では何も話したらダメなのかと思ったら、すごく怖くて。」
女の子が涙をぬぐった。
私は圧倒されて、決めつけた自分が情けなくて嫌になって、沈黙していた。
音が聞こえない。
それが、この子の「悪夢」。
何もない場所にいるなら、まだよかったかもしれない。
けど、周りにはたくさんのものが溢れているのだ。
なのに、目ははっきりと見えるのに、音だけが聞こえない。
聞こえるはずのものが聞こえない。
大都会なのに声も音もしない恐怖。
それは、たとえ夢の中とは言え、どれほど恐ろしかっただろう。
どれほど怖かっただろう。
私なら、もし同じ夢を見たらどうなっていただろうか。
車が走っていて。
人ごみがあって。
お店も、建物もちゃんとあるのだ。
けれど何の音も聞こえないとしたら、どれほどの不安に襲われることか。
「_____ごめんね。」
気づいたら、そう言っていた。
え、と女の子が不思議そうにこちらを見る。
瞳の端が、まだ濡れていた。
「その、どうせ都会に慣れてないんでしょって、決めつけて。まだ最後まで聞いてないのに、もう結論を出したような気持ちになって、偉そうなアドバイスして。本当に、厚かましかったよね。ふざけるなって、心の中で思ったよね……本当の悪夢はそんなんじゃないのにって、バカにしないでって。なのに気づかないで、ペラペラ余計なこと話して、本当にごめんなさい。悪夢をどうやって追い払うかの前に、謝っておきたくて。ごめん……。」
深く深く、頭を下げた。
後で行われるパソコンでの実践のほうが重要だとは聞いていたけど、だからといってこちらを適当に済ませる気は起きなかった。
私も、責任を感じていたから。
「ううん、そんなこと、思ってないよ。からかったり、笑われたりしなくて、むしろこうやってちゃんと謝ってもらえて、相手は子供なのに頭を下げられるって、すごいと思う。嬉しい。」
感情がまとまっていないのかあやふやな言葉遣いだったけど、言いたい気持ちが込められていて、それは真っすぐに私の中に届いた。
「あなたにだったら、教えて欲しい、どうすればいいのか。間違っていてもいいから、試してみようと思う。それに、こうやって聞いてもらえて、聞いてもらえただけでも、大分気持ちがスッキリしたの。」
「そっか……じゃあ、これで、治るかどうかはわからないけど、それでもいいんだよね?」
女の子は頷いた。
「えっと、それだったら……。」
耳が割れるような音が聞こえるはずの状況で何も聞こえてこない悪夢。
その悪夢をどうやって退治するべきなのか、頭の中に思い浮かんだことがあった。
「まずは、助けを求めるべきだと思う。心の中で、助けてって、叫んでみて。声に出さなくてもいい、苦しくなったら泣いてしまってもいい。助けてって誰かに叫んで。きっと、確証のない自信だけど、誰かに届くと思う。なんだか……平凡なアイデアで、ごめんね。」
「ううん。思いつかなかった。誰も助けてくれないと思ってた。そんなのやっても無駄なんだからって、押し付けてたけど、でも、改めてやってみようと思う。」
「ありがとう。……それからね。」
私は腰を曲げて、女の子と目線を合わせる。
そして、ゆっくり口を開いた。
「音がないなら、自分でつくっちゃえばいいのよ。」
「えっ?」
私の口から出た言葉に、女の子が意外そうな声を上げた。
「本当、に?」
「うん。試してごらん。何でもいいから。きっとうまくいくよ。きっと出来る。私は、信じてるから。」
「……ん。わかった!」
女の子が強くうなずいた。
「やってみる!」
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