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おはよう、白雪姫
毒リンゴの夢を見た。深く暗い森の中、硝子の棺で眠る夢だ。
幼い頃から『白雪姫』は、あまり好きになれなかった。王子様と出逢えなければ、目覚めは二度と訪れない。それが子供ながらに恐ろしかった。やがて玖留実は薄目を開けて、一瞬にして目が覚めた。
狭い部屋の天井は、窓からの斜光で真っ白だ。午前七時の明るさではない。とにかく急いで顔を洗って、メイクして、髪も梳かして、それから、それから――布団から跳ね起きる直前に、玖留実は全てを思い出した。
「そっか、行かなくていいんだっけ」
仕事、と。最後に付け足した一言が、一人の部屋にぽつんと響く。
*
仕事中に目が霞み始めたのは、いつからだろう。書類をまとめる作業を中断して額に手を当てていると「ルミさん、大丈夫ですか?」と声が掛かった。
「平気。胡桃ちゃん」
気丈に答えて、玖留実は振り返る。自分と同じ名の相手をちゃん付けで呼ぶ行為には、一人暮らしに慣れるのと同等の早さで慣れていた。
「そうですか? 私も手が空いたらヘルプに回りますね」
薄ピンクのカーディガンに、花柄のワンピース。甘いミルクティーやお洒落な洋菓子が似合いそうなこの後輩は、名前を豊川胡桃という。心配そうに目を伏せる姿は可憐で、傍を通りかかった男性社員が視線をこっそり寄越してきた。
玖留実と胡桃。この会社には二人クルミがいる。社内の人間はふわふわした可愛い二十五歳の方を「胡桃」と呼び、さばさばした男勝りな二十七歳の方を「ルミ」と呼ぶ。
「ありがと。その時はお願いしようかな」
唇を引いて笑んだ玖留実は、肩口で切り揃えた黒髪を耳にかけて仕事に戻った。
心遣いは嬉しいが、後輩の手を借りる場合、新たな指導が必要になる。玖留実が口にした「その時」は、繁忙期明けになるだろう。
だが、警戒もなく毒リンゴを口にするような油断が祟り、玖留実は翌朝出社するなり意識を失って倒れてしまった。目覚めた時には病院で、医者には過労だと告げられた。周囲に迷惑をかけたショックと、上司からの勧めもあり、一週間の休職が決まった。
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