相談

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 「おい、拓海、少し聞きたいことがあるんだが」  雅也は前の席にいる親友の拓海へ、深山の木々を纏う葉ほど暗い影を、その瞼に落としてこう尋ねた。2-1の教室の窓際縦一列の、その一番前の席で、表紙に「西洋美術史入門」と黒のゴシックで整然と記された本を読んでいた拓海は、彼の癖である読書中の厳しい、棘のある顔を、柔和な、愛嬌のある顔へとあからさまに容を変えながら、彼の親友井上雅也のいる後ろの席へと振り返り、そうして彼の唐突な相談口調と、その瞼の深い影を訝しく思った。  3月11日東京都世田谷区にあるY中学の昼休み、2年1組の教室で、机ひとつを隔てて向かい合うこの二人の少年(青木拓海と井上雅也)は、中学一年から続く仲であり、いわゆる親友と呼べる位置にまであった。  「突然どうした。そんなジメジメした顔をして、おまえらしくもない。」と拓海は言おうとしたが、「なんだい」と、優しい口調でそれだけ雅也に返した。  もともと雅也は汗血馬を胸中に宿すような、千里の道をもひとっ飛びで駆け抜かん快活な男であった。しかし、この日、ホワイトデーの三日前のこの日だけは、彼のいままでの、飯さえものどを通らぬ苦悩が、ついに彼の全身に毒を満たし、彼の瞼に暗鬱な影を落とすにいたったのである。まだ彼の話を聞いていない拓海には、彼がこのようにまでなった経緯はわからない。わからないが、長年彼の親友であった彼には、雅也をここまでしたなにかが起こったことはわかった。そして、活発な姿で周囲を明るくしようと努める青年の、自分のシケた顔を決して他人に見せたくない、という心理を知っていた彼は、そのことは彼の意志で、彼の口から聞かなければならないことも同時に理解した。だから彼は言いたい言葉を飲み込んで、「なんだい」と、ただそれだけを、のどの奥から悲しい犬の鳴き声のように発したのである。  「綾子ってかわいいと思うか」  伏し目がちにこう返答した雅也の声は、恋の赤らみを帯びていた。そして、この雅也の暗い影を落とした瞼の奥の、うるんだ瞳には甘い光がたゆたっていた。  拓海は驚いた。まさか雅也の口から綾子の名前が出るとは夢にも思わなかったからである。いや、綾子の名前が出ることはなんら不思議ではない。なぜならば、彼らは幼稚園時代からの幼馴染だからである。しかし、拓海が驚いたのは雅也をここまで苦しめた、その原因が綾子にあることである。
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