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綾子はドブネズミのたるんだ下あごと、ウシガエルの巨体を兼ね備えるような醜女である。このごろは、親戚の叔母からの、「綾子ちゃん可愛くなったねぇ」のそのひとことすら聞かなくなった。そんな女性である。
拓海は雅也の悩みの原因を部活、進路、恋愛、と3つに絞っていた。部活であれば空手部内の人間関係、進路であれば空手が強いK学校へ頭が弱い自分が今から勉強しても受かるかどうか、恋愛であれば、あまり候補は思いつかなかったが、綾子はないであろうと思っていた。もし雅也から相談されるとすれば(しかし、拓海は愚痴のような相談だと考えていたが)、部活か進路についてであろうと、傍若無人、恋愛なぞ雅也の眼中にないと彼は勘違いしていた。しかもあの綾子である。彼の心中は天変地異の動転をみせ、あまりの頭のぐらつきに椅子から転げ落ちてしまいそうなくらいであった。
「それはどういう意味でだ」
「どういう意味もなにも、純粋に綾子をお前はかわいいと思うかどうかを聞いているんだ」
雅也の真意がつかめないでいるうちは、拓海はうかつな返答ができないと思った。もし正直に「かわいいと思わない」と述べる、あるいは「かわいい」とうそをついたとしても、それらに対する雅也の反応が、拓海には一切わからないのである。
「綾子となにかあったのか」と、こう聞くしかなかった。これは雅也の精一杯な相談への侮辱であり、逃げでもあることが彼には分っていた。しかし、彼にはこれ以外の返事の仕方が分からなかった。素直に返事を返して、それに対する雅也の反応を見るだけの覚悟が彼にはなかったのである。
「大したことじゃないよ」
「大したことじゃなくても言ってみろって」
拓海は限りなく優しい道化であった。仏壇の前で合掌する老婆のため息の深さを、拓海は雅也の息遣いから感じた。
水晶のような照りを忘れない雅也の皮膚には老いぼれた駄犬のしわがきざみこまれ、陶器のように鋭い耳鼻には、ついに震災後の建物のような、あのひびがくっきり入ったような、そんな感じを雅也は与えた。
窓外では三月半ばの冷たい風が、校庭の木々の梢を強く打っている。その無機物な音が彼らの耳に入る余地はなかった。
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