第九話

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第九話

 実家で朝を迎えるのは何ヶ月ぶりだろう。  懐かしい部屋の雰囲気と太陽の匂いがする布団、俺が都会に出た後もお袋が掃除と手入れを欠かさないで居てくれたのが良く分かる、実にありがたい事だ。  安らげる空間の中、もう少し寝ていたい欲求が頭を支配し、なかなか目を開けることが出来ない、特にこの抱き枕の感触は心地よく……。  ん?……。  俺の部屋に抱き枕なんてあったか? 全く記憶に無いんだが。  多分お袋が買って来たんだと思うが、この柔らかさは尋常じゃないぞ、凄くいい香りもするしネットで紹介したら噂が広がり、すぐに売り切れ状態になるレベルの高級品だと思う。 『おはようございます一郎さん』  しかも音声機能付き……。  ……。  ……。  じゃなくて! もしかして寝ぼけて彼女に抱きついてたのか?  「ご、ごご、ごめん! これはわざとじゃなくて、その」 『気になさらなくても大丈夫ですよ、とても暖かく眠れましたから』  にこやかに話す彼女に少し安心した、よかった、どうやら抱きつく以外に変な事は……。 『ちょっとくすぐったかったですけどね』  やってたよ俺……。  特に怒ってるような態度は見せていないが、ここはキチンと謝っておかないとな。  でも、ちょっと惜しかったような気もするな……どうして触った時の感触を覚えて無いんだろう、もったいない。  彼女の顔を見ると表情が少し険しくなったように思える、まずい、考えてる事が伝わったのか? 「えっと、いやらしい事なんか全然考えてなくてだな、その」  次の言い訳を考えてると一階がバタバタと騒がしくなり、お袋が慌てて部屋に入ってきた。 「一郎! 春奈ちゃんが!」  言葉が途切れ途切れで話の内容は分からないが、その様子から大変な事が起きたのは理解できた。  間を空けず弟も二階へと駆け込んで来て叫んだ。 「どうしよう兄貴!」  どうやら春奈ちゃんは日課である犬の散歩に出掛け、途中にある溜め池に誤って落ちたらしい。  いつもより帰りが遅い事を心配した母親が探しに出掛け、溜め池にうつ伏せで浮かんでる姿を見つけ慌てて引き上げたが、既に呼吸も鼓動も止まっていたようだ。 「嘘……だろ?」  ふと見ると彼女の表情が険しくなっていたが、それは引き取る事態が起きたからなのか?  でもちょっと待て。  何かがおかしくないか? 昨日俺と擦れ違った時、あの子に変わった様子は一つも無かった。  普通に挨拶を交わし、普通に分かれた。  あれは俺だけしか見えていない話し方だったし、絶対に彼女の姿は見えてなかった態度だと思う。  だとしたら怪我や病気はするかもしれないが決して死を迎える事は無いんじゃないのか? いったい何が起きたって言うんだよ?  状況が理解出来ず頭の中が混乱している。 『一郎さん落ち着いてください! とにかく急いで春奈さんの所に行かないと』  彼女に手を引かれ溜め池に着くと、そこには血の気の無い、ぐったりとしている娘を抱きしめ泣き崩れる母親の姿があった。  救急車に連絡はしたみたいだがここは町からは遠すぎる、とてもじゃないが間に合わない。  この数日で息を引き取る場面には何度か遭遇して来たが、正直どこか他人事の様な想いがあったのかもしれない、顔見知りの人間の死は見るのがつらい。  彼女が息を引き取る為に静かに歩いて行くと、俺は涙を止める事が出来なくなっていた。 『一郎さん……安心して下さい』  その言葉に顔をあげると、今まで見た事の無い行動をとる彼女の姿があった。  それは"息を一口だけ飲み込む"いつもの行為ではなく、両手を顔に優しく添えて"息を吹き掛ける"……そんな行為だった。  何をしているのか分からず呆然としていると、水を吐き出す音と共に歓喜の声が沸き起こった。 「春奈が生き返った!」 「奇跡だ!」  口々に喜びの声をあげる人の中で俺だけが奇跡の真実を見ていた。 「ミコト、今のは?」 『息を吹き返したんです』 「息を吹き返した? それって"死者を生き返らせた"って事なのか?」  でも息を引き取り、死者の魂を黄泉之国へと導くのが彼女の使命、それを否定したり逆らったりするのは神としての意味を失う大変な事だった筈だ。  まさか! 俺が悲しんでる姿を見かねて使命に逆らったりしたんじゃないだろうな? 『大丈夫ですよ一郎さん、春奈さんは死を迎えるべき人では無かったので甦らせただけですから』 「甦らせた? それは生き返らせる事と何が違うと言うんだ?」 『人の中には稀に死を迎える時が来る前に黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)に迷い込んでしまう魂があるんです……そんな魂に正しい道を示し、黄泉之国から現世へと戻って来るよう導くのも私の使命なんです』  それじゃあ春奈ちゃんは間違えて黄泉之国を覗いちゃっただけって事なのか? 『なので私自身の使命を否定した訳でもありませんし、自然の摂理に反する大罪を犯した訳でもありませんので、どうか安心して下さい』 「そうか、良かった……」  それにしても"息を引き取る"や"息を吹き返す"って言葉は大昔から何気なく使われて来たんだろうけど、どちらも彼女がずっと背負ってきた使命に関する言葉だったんだ。  俺のように彼女と話した人間は少ないから直接その言葉を聞いた人なんて居ない筈なのに、身近な言葉として使われて来たと言う事は、長い長い年月を掛けて人間を導き、見守り続けてきた彼女の悲しみと苦労の証なんだろうな。  ようやく到着した救急車のサイレンの音に見守っていた全員から安堵の声が漏れた。  念の為、町の病院で診てもらうのが良いと救急車に乗る二人を見送り、皆は家路へと着いた。  かなり驚くような出来事だったが何事も無く安心できた事だし、そろそろ都会へと戻るとするか。  荷物をまとめた後、来なくてもいいと言うのに家族全員でバス停まで見送りに来てくれた。 「一郎、お金が無かったらすぐに言いなさいよ、あと生水は飲まないように気をつけて、それから栄養のある物を食べて元気でね、それから…」  長いよ!  それにしても"元気で"……か……。  明日の午後に俺は死を迎え、おそらく夕方には警察から連絡が入るだろう。  親より先に死ぬなんて、これ以上の親不孝は無いと思ってる。  だけどあなたの息子は誰よりも幸せな人生を送って死を迎える事だけは分かって欲しい。  お袋の子供に生まれて本当に良かったって、こんな馬鹿な息子にいっぱい愛情を注いでくれたあなたが母親で本当に良かったって、心の底からそう思ってる事だけは分かって欲しい……。 「一郎ちゃん、また帰ってきてね」  ばあちゃん……俺の葬式で泣かせてしまうかもしれないけど。  だけど一足先に黄泉之国へ行って、死んだじいちゃんと一緒にいい場所取っておくから。  黄泉之国がどんな所か分かんないけど。  何か美味しい店とか、綺麗な景色の場所とか、そんなのがあったら真っ先に場所を取っておくから、  だから、安心して来てくれよ……。 「兄貴、可愛い嫁さんと仲良くな」  ……。  ……。  お前は別にいいや……。  まぁ、俺が居なくなったらお袋を頼むな。  しばらく待つと一日に数本しかないバスが来たので、俺は田舎を後にした。 『一郎さん……悲しい思いをしていませんか?』  少し表情が曇っていたのか、彼女が心配そうに聞いてきた。 「いや、大丈夫だよ、もしミコトと出会ってなかったら、こうして最後にお袋達に会う事も出来なかったんだからな、本当に感謝してる、ありがとうミコト」  体を寄せ合う二人にはもう言葉を交わさなくても想いが伝わる何かがあるような気がして、長い帰り道の時間も穏やかな気持ちで居る事が出来る。  こうして俺は"死を迎える為"にいつもの町へと帰ってきた。
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