2/29
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/29ページ
 世界から消えて欲しいものは何?。人によって答えは千差万別だろう。ぼくなら迷わず「音」と答える。世界には音が多すぎる。そのほとんどは不快なだけで必要がない音だ。  今朝も、大音量のテレビの音で目が覚めた。母は、朝起きるとすぐにテレビをつけ、仕事から戻ると着替える前にテレビをつけ、寝る直前にやっと消す。流れているのはたいてい芸能人が集まってどうでもいいことをわめきあうだけの番組で、皆、申し合わせてでもいるかのように声が大きい。ただの騒音だ。テレビの前にはたいてい誰もいないので、ぼくが消すとすごい勢いで怒る。「音だけ聞いてるんだから勝手に消さないで」。その時の母は、酒を探しているときの父と同じ顔をしていた。いくら母が酒を隠しても見つけ出し、年中酔っぱらっていた父は、五年前に肝硬変で死んだ。  夕方、母が仕事から戻るまでが唯一の静かな時だ。短大生の姉が家にいなければの話だが。肉がたれさがるほどでっぷり太った姉は、痩せるなと誰かに脅迫でもされているのか、いつも何かを食べている。テレビのかわりに絶え間なくCDをかけている。単調なビートにのせて男がだらだらしゃべり続けているだけの、メロディらしいメロディもない歌だ。妙な抑揚のせいでことばすら聞き取れない。音楽にも聞こえない。それこそ騒音だ。母も姉も、音がないと生きられない。母はテレビ、姉は妙な歌。父だけは静かだった。いるのかいないのかわからないほどだった。音の代わりが酒だったのだろう。  休日はテレビと歌のダブルパンチなので、図書館や公園に避難する。もちろん、家を逃げ出しても音から解放されるわけではない。昼夜とおして無音の時など一瞬たりとも存在しない。パトカーや救急車のサイレン、選挙演説、道路工事、バイク、カフェや電車内で大声でスマホで話す奴ら。人を殴れば犯罪だが、音を垂れ流すのは一定の音量さえ越えなければおとがめなしだ。空気という物質の震動が音なのだから、聞きたくもない音を聞かされるのは、耳の穴に鉄棒をねじこむのと同じではないだろうか。
/29ページ

最初のコメントを投稿しよう!