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「仁科さん。食べてもらったチョコレートは、舌触りはどうでした?」
「……商品としては並べられない」
「駄目でしたか」
栞はうつむいた。仁科は少し考えてから、栞に聞いた。
「テンパリングのとき、温度計で計ってるか?」
「はい」
「多分そこで、もたついている。慣れれば……下唇だけでチョコレートの温度がわかるようにもなる。技術は改善するから、今は気にやまなくていい」
「難しそう」
「面倒くさがりの東山なら必ず、温度計を使わないテンパリングを会得できる」
「あまり褒めてないですよね?」
栞は小数点以下の温度やグラムにこだわれず、製菓の実習で失敗したことがある。
『大らか』ともいえる性格は、仁科に把握されていた。
「まあ、バレンタインで売る商品ならって話だ。そう舌触りも悪くなかった」
仁科は栞の膝に、ハリネズミのページを開いたままの、ノートを置いた。
「このチョコレート自体、上出来だ。美味しかったよ」
栞はノートを膝に乗せたまま、顔を輝かせた。
「本当ですか?」
「ああ。こっちも刺激になったよ」
「どのくらい美味しかったですか?」
「また試作を食べたいくらいには」
「嬉しい! 仁科さんから、こんなに褒めてもらえるなんて」
「……どういうイメージなんだ。お前の中の俺は」
「刺がある人」
そのとき、店に女性客が入ってきた。栞は椅子から立ちあがり、そつなく接客をこなした。
ケーキの小箱を抱えて出ていく女性を、笑顔で見送る。
「渡されたときから、よく作ったと思っていた」
自動ドアが閉まると、仁科が話を戻した。今はレジ台の近くに来ている。
「ここのシフトと学校で、夜まで忙しかったろうに」
「忙しくても平気でしたよ。私、ここのケーキ大好きですから。それに……」
栞はバックヤードのほうに耳をすませた。まだ店長は帰ってきていない。
「……ターゲットのことを考えたら、頑張れました」
栞はしばらく店に客が来ないよう、心で祈った。店長には申し訳ないが。
大学で製菓の実習があったときの帰宅時間は、夜の八時過ぎ。洋菓子店でアルバイトをしたときの帰宅時間は夜の九時過ぎ。そんな毎日の中で、バレンタインにチョコレートを手作りした理由は、しっかり伝えておきたい。
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