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【午後二時五十六分】
東京都S区警察署。
「野々宮さんイイんですか。俺たちだけ詰め所待機で」
橘彰二(たちばなしょうじ)はデスクに座り、やはり同じくデスクに対面して着席している野々宮和俊(ののみやかずとし)に、背中を掻きながら話しかけた。野々宮はデスクの上に二つの足を乗せて交差させた状態のまま両腕を真上に伸ばしダルそうな口調で、
「イイんだよ。何も事件がないのに、せかせか動いても無駄な労働。刑事部の他の連中だってポーズで何かの捜査してんだから。いやあ、ここの管轄に異動してきてから長いけど、いつも治安は安定でさあ。せいぜい自転車のパクりか露出狂の変質者とか、中高年の万引きやら中途半端なストーカー野郎への説教ぐらいしか、街の平和は乱れてねえからな。それもほとんど生安部のお仕事で、刑事さんの出番はねえって感じだし。それに比べて、俺が前にいたD署なんて中国人やら中東の外人どもがタムロしてヤクの売人していたり、暴対法や暴排条例がネックになっているにも関わらず暴力団は暴力団でメンツ理由から小さな諍いをやっちまうとか面倒事が多くてさあ。ま、俺はあんま関係なかったけど、それでも署の椅子の上で寝てた夜は多かったからな」
と野々宮は自分が管轄する地域の治安が守られている事を手放しで褒める。一方で橘はそんな野々宮の話を聞きながら、徐に頷いてはいたが内心では、ここが静かで安全な街である事は分かっていた。
橘はそのような胸の内を踏まえた上で、
「確かに。都内でもここいらは特に治安は良いですからね」
「あ、そんな事より聞いたぞ、橘」
「はい?」
「お前今度、警部補の昇進試験受けるんだろ」
ネクタイも緩々、ワイシャツもシワシワ姿の白髪交じりの中年刑事は、意地の悪そうな笑顔を若い刑事に向ける。若い刑事こと橘は大きく溜め息をつくと、
「やれやれ。そんな話が俺の知らない間に出回ってんですか?」
「んじゃ、デマじゃないんだろ?」
「まあ、一応は受けるつもりでいますけどね」
「この野郎。先輩に密かに黙っていて、その歳にして俺と階級を並ぼうってのかよ。まだ三十代だろ?」
「二十九ですよ」
「だったら尚更だ。そんな若くして昇進狙ってどうするんだよ。今はみっちり現場で修行を積んでな、そんな肩書きなんかよりホシのケツを毎夜追う事に人生費やせよ」
「別に年齢的には若くないですよ。同期なんかでも早い奴なんかは警部でいたりしますからね」
「かあ、だから嫌なんだよ大卒は。すぐに昇進、昇進。ああ、世知辛いねえ。職人肌の刑事ってのは減っていく一方。おじさん悲しいぜ」
明らかなオーバーリアクションで野々宮は嘆くと、橘は柔和な表情で再び大きく溜め息をついて返した。
「おっと」
椅子の背もたれに寄りかかっていた野々宮は、反射的に一言を発すると半身を起こさせ、自分のデスクの上で震えている携帯電話を手にした。
「おう、戸塚(とづか)か。どうした。え、何だって? コロし? だと」
殺し。
野々宮が語気強めに吐いたその言葉が、他の部署の連中も常駐している自室に響き、閑散としていた雰囲気にザワめきが起こり始めた。無論、橘は誰よりも先に野々宮の台詞に反応して、後の野々宮の電話のやり取りをガン見した。
「ああ、二時半頃に銃声を付近住民が聞き、するとK七番地で中年夫婦が銃殺された、と。で、周りを聞き込みしたら、ガイシャの中年夫婦の息子の……沢田大翔(さわだはると)が散弾銃と大きなボストン・バッグを手にして、大通りを真っ青な顔をして走る姿を目撃したという話が多々あった、と」
沢田大翔。
橘はその名前を聞いた時、自らの背に悪寒が走るのを感じた。
〈いや、まさか……な〉
橘はネクタイを緩めて、自らの脳裏に浮かんだ真偽を曖昧にした。
一方で語気強めに野々宮は会話を続ける。
「磯川(いそかわ)署長に話はいってるな? ああ、今日は公民館で高齢者におけるオレオレ詐欺やら引っ手繰り被害の防止策の講演してるから。そう、うん。兎に角、現場の保存はしっかりやっとけ。今すぐ俺と橘も向かうから、分かったな」
野々宮は携帯電話を切ると立ち上がり、椅子の背もたれに掛けていた背広を直ぐに羽織ると、その内ポケットに携帯電話を仕舞いながら、
「向かうぞ、橘。ったくこの街は治安が良いって話をしてたのに、皮肉なタイミングだぜ」
と愚痴るように走り出したが、また携帯電話を取り出して、
「何だ、今度は倉敷(くらしき)か。今、ちょっと立て込んでいて……は? 銀行強盗だと!?」
橘は野々宮の後を追おうとしていたが、銀行強盗、という言葉に足が止まった。野々宮も一度足を止め、
「M銀行の南F支店で二時四十分頃に銀行強盗が発生。なに? 既に死者が三人出てるだと! で、ああ、犯人は散弾銃のような物を所持。目撃者によると犯人は銀行をシャッターで閉じて篭城中で、銀行に入り込む前にチラシのようなもの道端に撒き散らした? 何だそりゃ。お前はもう現場にいるんだろ、だったらそのチラシの……は? 履歴書のような内容の紙だと? 待て待て、よく分からん。俺も急いでそっちに向かうから、連絡する所には全て伝達しとけ。捜査本部? 立ち上げてる暇なんてねえだろ。現行犯の事件なんだから。とりあえず落ち着け。そう、そうだ、うん。それと、立禁のテープ、ああ、規制線はしっかり張り巡らせとけよ。それと銀行内の犯人の動きは目を離さず、野次馬連中のケガ人は絶対に出すな。応援が来るまで踏ん張れ」
携帯電話越しに焦りに焦った同僚の倉敷の声が漏れる。片や野々宮は多少の動揺をしながらも冷静に現場の倉敷に指示を出す。
〈さすがは若い頃は自ら治安の悪い管轄に率先的に出向して、数々の修羅場をくぐり抜けてきた事のあるベテランの野々宮刑事だ。ウチの最年長にして頼れるボス。しかし、この管区で銀行強盗が発生したなんて、俺もそうだが倉敷だって初めての経験だからな。パニックになってしまうのは仕方ないか。それに散弾銃のようなものといったら……〉
橘は携帯電話を切り早足で外に向かう野々宮の背について行きながら、そんな考えに駆られていると、再び野々宮は歩きながら携帯電話をかけ、
「あ、戸塚か。ちょっと俺らはそっちに行けなくなった。え? 銀行強盗だよ、銀行強盗。今度は銀行強盗が発生したんだよ。だから俺らはそっちに向かう。磯川署長がこれから人員の差配をしてくれると思うからそれまで粘れ。そうだよ、こっちだって訳分かんねえよ。こんなに事件が同時に多発するなんて」
とそれだけ告げると携帯電話を内ポケットに入れて、さらに歩足を上げた。
そして、
「何やら早くも点と点が繋がって線になった感じだな」
と野々宮は苛立った声音で橘に言った。橘は一瞬、口篭ると、
「散弾銃……同一凶器ですね。やはり犯人も同一人物でしょうか」
「じゃないと逆におかしいだろ。こんな連続した凶悪事件の偶然があるか?」
「……ですね」
「だけど最初の夫婦殺害の現場から十分ぐらいでM銀行までたどり着けるもんかね」
「目抜き通りを抜ければ一本道ですから。走っていけば間に合います」
「お前、詳しいな。ああ、そうか。ここってお前の地元だったか」
「…………」
橘は言葉を返さず無言で小走りの移動を続けた。
二人が署内を出て黒塗りの覆面パトカーのセダンに乗り込む時、野々宮は少なからぬ怒気を含めて呟いた。
「沢田……何とかって言ってたな、夫婦殺害の息子。まだ容疑者の段階だが、恐らく銀行強盗する前に両親殺して面倒事からカタをつけたって算段だろ。鬼畜だな」
野々宮は他人の運転は信用せず、常に自分で運転するので自然と橘は運転席を譲る。また、野々宮は捨て台詞のように沢田某(なにがし)と呼び、沢田をフルネームで覚えていなかったが、橘は銀行強盗犯の容疑者である沢田の名前も覚えていた。
〈沢田大翔〉
その名は橘彰二の中では、小学生から高校生まで付き合いのあった、友人であり野球を通じた球児仲間として記憶に潜み、懐かしい響きとして刻まれていた。
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