【午後三時三十四分】

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【午後三時三十四分】

 M銀行、周囲。 「撃たないでください! 私は人質の銀行員です。犯人の方は条件を飲むと言っています」  突然銀行から出てきた大声を叫ぶ人間に、一瞬現場は身構えたが、すぐに野々宮は状況を理解して、 「分かりました。行内の状況などは教えてくれませんか?」  と拡声器越しに問いかけたが、女性銀行員は困惑した表情になり、 「すみません。何も言えません」  と申し訳なさそうではあるが大きな声で返した。野々宮は犯人が後方で銃を構えているのであろうと推測し、これ以上話を長引かせるのはまずいと判断して、 「分かりました。ご協力感謝します」  と応えて、素早く三人の遺体の撤去と拡声器の受け渡しを行なった。女性銀行員は拡声器を取ると、足を引きずらせながら犯人の言った通りに、入口のドアに隙間を残し行内に戻っていった。 「さて、と。ここからだな」  野々宮はそう言いつつ顎をさすると、事件後初めて現場に動きがあったため、周りの見物人たちもザワザワと騒ぎ始めた。一方で橘は相変わらず身動きせずに、傍目のような態度で黙って銀行の方を見つめていた。 「そろそろマスコミ連中が群がってくる頃だな。おい、橘。記者連中が来たら適当に対応を頼む」  野々宮は目線を銀行に向けたまま、すぐ後方にいる橘にそう声をかけたが、橘からの反応はなかった。野々宮は後ろを振り向き、考え込んだ様子の黙っている橘に向かって、 「おい、橘。聞こえているのか」 「あ、いや、すみません。何でしょう」 「ったく、緊張感を切らすなよ。マスコミ対応を頼むっての。多分、これからドドっと奴らが来るだろうし、中継のヘリとかも飛んでくるはずだ。ま、邪魔になるから追い出すぐらいの勢いで規制して……いや、逆に宣伝してやるか」 「宣伝する?」 「犯人の奴を思いっきりフォーカスさせてやるんだよ。こんな自分の履歴書まがいのチラシを撒くような野郎だぞ。自己承認欲求と自己顕示欲の塊みたいな奴だって事は分かりやすいほど分かりやすい。だからお望み通りテレビの大画面を占拠できたら、欲求不満が解消できて、逆に落ち着きを取り戻しかも知れん。犯人によっては大騒動になってパニくるタイプもいるが、こいつは間違いなく劇場型好きのホシだわ。だから、あのチラシをマスコミ連中に公表して……」  と野々宮が橘に指示を出している途中だった。銀行内から拡声器のハウリング音の後に、罵声とも怒鳴り声ともに近い一声が放たれたのは。 「この、アホんだら警察! 聞こえてっか! お前らの意見を尊重して、俺様の要求をしてやるぞ。だからお前らもちゃんと真摯に敬意をはらって応えろや。欲しいのはシャブだ、特にガンコロの多いヤツ100g以上。当たり前だが純度の高ぇブツだぞ。後はマリファナを用意できるだけ持って来い。それと現金一億円。札の通し番号はバラバラのヤツで、万札で八千枚、五千円札で三千枚、千円札で五千枚。それと逃走用のヘリも用意しろ。一時間以内に全部揃えねえと人質をどんどん殺していく、以上!」  犯人からの事件後の初めての肉声。 瞬間、野々宮は拡声器を取り、 「分かった、その要求を飲む。だが、一時間という短い時間では無理だ。もう少し時間の猶予が欲しい」 「無理でも何でもやるんだよ! じゃなきゃたくさん死人が出るだけだ! 「ああ、了解した。我々としては出来る限り最善を尽くす。そこで話があるんだが人質の安否を……」 「うるせえ! 人質は俺のモノだっ! 話が通らなきゃ誰も解放しねえし、要求通りにしなきゃさっきも言ったが、ただの死体(ボディ)となってしか返らねえよ」 「せめて君の分も含め弁当などの食事を運ばせてはもらえないか。人質の健康状態も気になる」 「アホか! こんな状況で腹を空かせているタコがどこにいやがる!」  苛立ち声の犯人の台詞に対して野々宮は小さく舌打ちして、食事の数である程度人質の数が分かると思ったんだがな、と小声で拡声器を避けて呟いた。 さらに野々宮は話を続ける。 「すまなかった、落ち着いてくれ。ひとつ聞きたい事があるのだが、君がバラ撒いたとしたこのチラシに書かれていること……つまり、君は沢田大翔本人なのか?」 「そうだよ、沢田大翔様だよ。二十九歳。乙女座だっての。ヒャッホー! さっきついでに俺のお父ちゃんとお母ちゃんもぶっ殺してやってぜ、ハッハー!」  嬉々とした銀行強盗殺人犯、沢田大翔の声。その声は狂気じみてはいたが、橘の耳には多少のノスタルジィを感じた。 〈やはりアイツだったか。確かにあの頃の沢田大翔の声音が残っている〉  憎むべき犯人ではあるが、一方で奇妙な懐古の念も覚える。橘はこれからこの事件とどう向き合っていくか、一抹の不安を抱え始めた。 「兎に角、俺の要求は以上だ。とっとと用意せえや!」  と沢田は言い残して、それ以降は喋らなくなった。 しばらく騒然となる現場。野々宮も拡声器を置いて顎を摩りながら、困惑した表情で黙っている。そんな動きが止まった野々宮の様子を穿ち橘が立ち寄って、 「どうします、野々宮さん?」 「言っている事は無茶苦茶だが、少しは理路整然した話し方をしている。そこはまだ交渉の余地があるという思考力が残っている感じはするんだが、危険なのは既にある程度ヤクでラリっていそうな犯人の状況なんだよな。こういった籠城事件の展開は無理に急ぐより、長期戦に持ち込む方が得策なんだわ。人質には悪いが犯人も事件が長期化すると、かなり疲れが溜まってくるわけだ。そうなると、だんだん妥協的になってきたり、弱腰になってきたりと、犯人の心理がやつれ変わってくる事が多いわけよ。だが、逆に苛立ちが上回り自暴自棄的な行動に走る場合もある。だからホシの沢田がヤクでハイになっている頃はイイが、そいつが続かなくなってくると……」  野々宮が橘に説くように話していると、制服警官が近づいてきて、 「沢田は前科も前歴もありませんね。せいぜいスピード違反が記録に残っているだけです」  といってたった一枚の沢田の資料の紙を野々宮に手放しすぐに去って行った。野々宮は紙を一瞥するとクシャクシャにして投げ捨て、 「元々は普通の一般市民という事か。そんな奴がいきなりこんな大事件を犯しちまった。これまたヤバい条件が揃っちまった」  橘は怪訝な表情を浮かべの野々宮に問う。 「ヤバい条件? どうしてですか?」 「妙な言い方だが、犯罪慣れした奴の方が、事件の引き際ってのを分かっているケースがあるんで、何て言うか、ある程度打算的に考えて行動するんだが、ただの素人の庶民が突然事件を起こすと、その振り幅がデカすぎて極端になりがち。つまり、規模や被害的にその中間的な犯罪を飛び越えて、大事をやらかしてしまう。ただ人を殺してみたかったから、の類いで無差別大量殺人を起こす犯罪者ってのはその典型が多いだろ。普段は物静かで、そんな事をするような人じゃないってな、犯罪者を知る人物のインタビューが示すように。基本、少なくとも表ヅラはマトモな市民を演じている素人が、唐突に犯罪を実行しちまうと、今回みたいな話になって来るんだよ。だからこのままの展開で予想するに、沢田の精神がイっちまったら、最後は人質を道連れにして自らは華々しく自殺……のような最悪なシナリオも考えられる。だからこそ人質のリスクは覚悟の上で、警官隊を突入させて短期決着するか、やはりセオリー通り長引かせて犯人の疲労と判断能力の低下を待って仕掛けるか。どちらにしろ犯人の精神状態のタイミングが肝心なんだがな。いっその事は改心して自首でもしてくれれば事なきを得る訳だが……ま、今の時点ではその可能性は低い」  橘は眉をひそめながらも首肯すると野々宮に、 「つまり、かなり慎重を期するのが重要だって事ですね」 「まさしく予断が許されないって状況だ。犯人が暴発しちまったらアウトだからな。あくまでソフトに攻めていく、いや、むしろ守りに入って受動的に相手の要求を待って動くのも一つのカードとして考えていた方が良いかも知れん。だが、あまり消極的な態度で犯人と交渉すると、相手にナメられて敵を増長させる場合があるから、その点の見極めも難しいな。犯人の心理状況、強行突入するならそのタイミング、その際に考えられるリスクやら、問題は山積してる。兎にも角にも、ヤク中ってのが始末が悪い。いつ、正気を失うか……いや、もはや五人も殺している時点で正気は失っているものか」  と野々宮が話している間にも制服警官が銀行の見取り図や狙撃隊の配置図などの幾つかの書類が渡していた。 「換気用ダクトは狭いし、裏口からの強襲では恐らく犯人が人質を確保して陣取っているであろう、銀行の待合室までが遠すぎて、侵入が犯人に気づかれ余計に人質を危険にさらすな。やはり犯人が何らかのきっかけでもイイから、銀行から出て姿を現してくれないとしんどい。どうにか奴を外に出せないものか……」  野々宮は図に目を通しながら苛立った口調でブツブツと一人言をしている。一方でそんな野々宮を横目に橘は屹立して静かに銀行の方を見つめている。 〈沢田大翔……お前は高校卒業後からどんな人生を歩んできたんだ? 何故、お前はこんな事をしちまってるんだ? 俺は悪夢を見ているのか? いや、お前が見せつけている現実なのか? クソ! お前は俺たちの憧れだったじゃないか。エースで4番で頼れる主将で、まるで典型的な野球漫画の主人公ように活躍する高校球児だったじゃないか。地元にこだわり、野球での推薦入試を断り野球の強豪校を避け、俺と同じ地元の弱小野球部の進学校に通い、高校野球ではそんな野球部に入部し、いつも地区予選落ちだった俺らの高校を、3年生最後の夏の大会では都大会の決勝まで引っ張っていってくれた最大の功労者だっただろう。もう古い話かも知れないが、まだ地元に住んでいる連中からすれば、お前は地元のヒーローだったんだぞ。お前の事を知っている人間からすれば、お前がその地元で起こしている今の凶行を、どう見て感じていると思ってるんだ。おい、沢田。何がお前を狂わせたんだよ?〉  橘は歯ぎしりをしながら、銀行に向ける目線はさらに睨みをきかせていて、あきらかに苛立つ様子を隠せないでいた。今すぐにでも銀行に入り込んで、旧友である沢田と再会したい衝動。それと同時に湧く犯罪者として憎むべき沢田大翔への怒り。複雑な思いを橘は交差させながら、何とか無言で冷静さを保つ事が手一杯だった。 「しばらくは、待ち、だな、橘」  いつの間にか野々宮の周りにいた取り巻きの警官が去り、野々宮は背後に佇む橘に顔を向ける事無く話しかけた。  橘は革靴のつま先を何度も地面に叩きつけ、相変わらず焦らす姿も顕わに、 「待ちますか。そうですね、少し待ちましょう」  無表情ではあるが、早い口調の橘の言葉に、野々宮は普段冷静な橘に違和を覚え、 「どうした、何か落ち着いてないな」 「いえ、大丈夫ですよ」 「確かにこういうデカい事件(ヤマ)は初めてで逸る気持ちも分かるが、ここで慌てちまうと逆に犯人の術中にはまって、というか奴に何らかの術まで練っている思考力があった方がむしろ救いになるかも知れんがな。まったく、妙な展開だ」 「犯人は恐らく馬鹿ではないですよ」 「こんな無軌道で行き当たりばったり感満載の事件を起こしてるのにか? 少なくとも異常者である事は間違いないだろう」 「…………」  橘は野々宮に返す言葉はなかった。ただ、沢田に対する困惑する一念は橘の中では膨らむ一方であった。  一体お前に何があったのだ、という思い。何がお前をそうせた、という気持ち。  橘彰二の脳裏には過去の沢田大翔のユニフォーム姿ばかりが鮮明に残り、まだ見ぬ現在の沢田大翔の様子が想像できないでいた。
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