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【午後四時十五分】
M銀行、周囲。
「何だ? 今の銃声は!」
沢田が放った散弾銃からの一発は銀行の外にも響いた。
「野々宮さん!」
反射的に橘は野々宮の名前を放つ。周りの警官たちも思わず野々宮を注視する。現場は野次馬の悲鳴と金切り声が混ざり騒然とする。
野々宮は眉をひそめただけで、しばらく黙った後、
「今の銃声はなんだ、沢田!? 何をしたんだ!」
拡声器を片手に沢田が立てこもる銀行に向かって怒鳴ってみたが、それに対しての応答はなかった。野々宮は荒ぶって頭を掻き乱しながら、
「人質に対する威嚇の銃声か、それとも人質の誰かが逃げ出して発砲したか、もしくは何の意味もない犯人の気まぐれの一発だったか……」
と推し量りながら呟いた。
橘は野々宮に迫り、
「強行突入の策は?」
「まだ早い。いや、正直、考えあぐねている。行内の状況が全く窺えない上に、相手はシャブ中だ。本来なら犯人の疲れを待ち、長いスパンで事件と向かい合いたがったが、どうにも逆に痺れを切らしているようにも考えられる。だが、今のタイミングで銀行に強行突入してしまえば、確実に人質の何人かは殺されるはずだ。パニクった犯人によって。だからといって長期戦に持ち込むのが人質の安全の確保につながるとは決まっていないがな。それにこっちはこっちで警官隊を入れ込んだ所で、慣れない初動だから手際良くいかんだろう。あらゆる面でしがらみが纏わりつきやがる。クソ! この判断の迷いが命取りだってのに」
あきらかに自分自身に苛立ちを覚えている野々宮。決断能力の早いベテラン刑事の野々宮が事件の陣頭指揮に迷っている。先ほどまでの解決に対する活気は窺えない。既にその姿には憔悴しきった感があり、想定外の銀行内での銃声に焦思が纏わりついているようだった。改めて橘はその様子を見て、今次の銀行強盗事件の困難さに直面する思いを抱く。
一方で橘は沢田にも慮る。
〈俺とお前は特別な親睦はなかったが、腐れ縁で小学校から高校まで野球を介して一緒だった。そして、いつもお前は俺の先に行き、俺はお前の後姿を見てた。お前は常にエースで四番。俺はギリギリ、ベンチを温める補欠としてスタメン入りしていた。地元では抜きん出た天才球児の沢田大翔。それこそプロへの道も目指せた期待の星だった。そうだ。実際に都大会決勝止まりの俺らの高校であるにも関わらず、プロのスカウトが注目していてドラフトの話もあったじゃないか。だが、お前はスカウトやドラフトの俎上には乗らなかった。もしかしたら、実績不足で沢田は掃けられたのか? 幾ら本人の実力があっても甲子園には出場できなかった。つまりは俺ら沢田以外の弱小部員がアイツの足を引っ張って、アイツの超高校級の才能に水を掛けていた。もし、そうだったら沢田にとって俺らはただの足枷に過ぎなく、邪魔な存在でしかなかった。いや、もしそうだったら元々からして野球の強豪高校から推薦を受けていたんだ。そっちの高校に入れば良い。しかし、アイツは地元の弱小野球部を選んだ。そう、沢田は地元にこだわり、あえてその弱小野球部を強くして、甲子園に出たかったんだろう。だが、俺らがアイツの実力に追いつけず、念願の甲子園まではいけなかった。沢田だけ一人が名選手だとしても、野球は九人でやるものだ。さすがの沢田の力をもってしても、野球部自体の底上げは限界があったんだ。だから結局、もしかしたら沢田にとって俺らは憎悪の対象にすら見えているのかも知れない。アイツの夢を叶えられなかった、沢田の助力に成りえなかった存在として。それだったらアイツにとって高校時代は最悪の思い出になっているのかも知れないな〉
深読みにも近い橘の沢田への思案。
一発の銃声が轟いて以来、M銀行の周囲は喧噪にかられていたが、橘は聳えるような姿勢でほとんど身動き一つしていなかった。片や野々宮は何とか絞り出した対策をして、忙しく警官たちに幾つかの指示をしている。それとは別に橘は不動の沈黙状態とはいえ、冷静に現場の状況を見極めている。いつでも野々宮の指示から出たら、出動できる準備は出来ていた。
だが、そんな心待ちでも、橘の胸中は掴みどころのない、沢田との少ない接点を踏まえての記憶が、頭に横溢していた。
〈いや、しかし、確か三年生の最後の大会が終わった後に、俺は一度沢田とサシで、会った覚えがあるぞ。もう野球部も引退後、秋に差し掛かる頃だったか、俺は大学進学に向けて受験勉強をしている最中だった。そして、参考書を片手に下校している時に、たまたま沢田に会ったんだ。そう、その時に河川敷で二人、キャッチボールをしたんだ。あの河川敷は草野球用の小さなグラウンドがあって、それにちょっとしたプレイヤーズ・ベンチみたいのもあったから、そこからグローブとボールを拝借して、キャッチボールをしたんだ。今、思えば最初で最後の沢田と面と向かい合ってやったキャッチボールだったか。野球での付き合いの期間は長かったのに、あまりにもアイツとはレベルが違いすぎて、マトモに投げ合った事はなかったな、あの時まで〉
日が落ち掛けた黄金色の空を背景にした沢田大翔に向かって、橘彰二は使い込んだ縫い目も緩くなっている古くさいボールを放った。それをやはりオンボロのグローブで沢田は受け取り投げ返す。お互い黒い襟詰め学生服を着たまま、会話なく機械的に投げ合う。橘は一縷の気まずさを感じてはいたが、無言で沢田と向き合って初めてのキャッチボールに奇妙な心地良さを覚えていた。自分があの手が届かなかった野球の実力者と、エースで四番のかつての野球部のキャプテンと同等に投げている。高校の同級生で仲良しという間柄ではなかったが小学校からの付き合いがあった沢田。橘は沢田が、憧れの存在、というより、一友人として身近に今しているキャッチボールの間は接していられるのではないか、とも思索していた。
「橘は大学に進むんだよな?」
不意に沢田がボールを投げながら、数メートル離れた所に位置する橘に問いかけた。橘はボールを受けると、やはりボールを投げながら答えた。
「ああ」
「そうか。じゃあ、これから勉強頑張らないとな」
「まあな。沢田はどうなんだよ。噂ではプロからも声がかかってるって聞いたぞ?」
「ん? いや、ちょっと俺は肩がな……まあ、俺は就職するよ」
「……そうか」
それ以上多くはお互い語らなかった。当たり障りのない会話のように橘は思っていたが、ちょっと俺は肩がな、と沢田が言った時、その沢田の表情に一抹の寂寥感を覚えた。
しばらく投げ合った後に沢田は、
「そろそろ帰るか」
と告げたので橘は頷き、グローブを取ろうとしたが、沢田は学生服を脱ぎ、ワイシャツ姿になり袖の部分を捲った。
「なあ、橘。最後にキャッチャーの構えしてくれよ」
沢田はそう言うとピッチャーのフォームになり、グローブにボールを入れ込んだ。橘は自然と中腰になってキャッチャーの構えをとった。すると沢田は大きく振りかぶり、橘に向かってストレートを叩き込んだ。それを受け止めた橘。
バシッ!
使い古しの薄革のグローブで、キャッチャーミットではないとはいえ手のひらに伝わる衝撃、そして、速度と音。橘の全身には気迫のこもった一球を受けた気がした。これが超高校級の重さってヤツか、と。
「どうよ?」
ドヤ顔よろしく悪戯っぽい笑顔で橘に尋ねる沢田。橘は一度唾を飲み込むと、
「イイ線いってるよ。これならプロでも通用する」
と何も忖度する事なく、歯に衣着せぬ正直な感想を返した。すると今度は少年のような無邪気な相好を沢田は見せて、
「だろ!」
と嬉しそうに力強く答えた。
沢田はグローブを脱ぎ、学生服を肩にかけて橘に背を向けて歩き出すと、
「あばよ、橘」
と振り返る事なく片手だけ上げて去っていった。ビロード色の夕焼けに向かって歩いていく沢田の後姿を橘は見送りながら、
「何が、あばよ、だよ」
と鼻で笑ってしばらくその場に佇んでいたものの、肩に学生服を掛けてバンカラ風に見せている沢田の背に、橘は憧憬に近いものを感じた。
〈そう、一度だけ卒業前に絡んだ事があった〉
頼りない記憶ではあったが、一時、懐古に近い念を橘は抱いた。
野々宮ら他の警官たちは沢田からの要求の品のフェイクを用意して、これからの再度交渉の準備をしている。その中で橘は呟いた。
「もしかして沢田……お前の甲子園はまだ終わってないのか」
と忙しい状況下、誰にも聞こえないほどの小声で。
一方で、それはあまりにも感傷的すぎるか、とも橘は鑑みてみたが、自分のそのクサい推察を簡単に振り払う事は出来なかった。
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