第1章 中央区日本橋浜町に生まれた

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 僕は中央区日本橋浜町に染色友禅図案家(模様師)の次男として生まれた。 浜町は当時、バスしかなく。陸の孤島のように不便だった。当時は国電は浅草橋駅までの 歩くのだが歩いて40分かかり、地下鉄は人形町駅まで10分かかった。都電全盛時代は 便利だったが、バスになってからはあまりアクセスの良いとはいえない地域だった。  疎開先だった信州へ行くのに親父、兄貴、僕の3人は早朝の明治座を右手に見ながら 浅草橋駅に向かって歩き続けた。新宿駅まで、行き。松本方面行きの中央線に乗り換えて 大月・甲府・諏訪・松本駅で後は渚まで徒歩で行く。当時は蒸気機関車でトンネルに入る と臭い煙でゴッホ ゴホッゴホッと咳でむせる感じだった。機関車には馬力がなくスイッ チバックと言って登ったり、降りたりでの急斜面を登りので松本まで、時間が5から6時 間かかって不便だった。  お盆時で、大灯篭流しが行われ、親父が描いたあさもと屋の灯篭は小さな感じで迫力 がなかった。  なかなか風情のある光景が描かれていた。  親父の通った小学校を見にいったが、明治時代の建物で100年近く歴史のある開智部 小学校という名前だった。  親父の兄は松本深志高校の人文地理の先生だった。のの先生は長男で3人の子供がいた が、長男は松本深志で、長女は蟻ケ崎高女であった。優秀な兄弟姉妹だった。親父の弟は 上田蚕糸と言って今の信州大学の繊維学部を卒業して、機織り気を考案したという話を聞 いたことがあった。末の弟も銀行の八十二銀行の支店長になったということだった。  妹はあさもと屋という資生堂チーエンの雑貨商を営んでいたところに嫁いだ。一番下の 妹は少しわがままなところがあったが、木こりの大型のこぎりの販売を大きく行っていあ た。親父の父は八十二銀行の支店著まで勤めて定年を迎えていたが、後妻と仲良く渚で 暮らしていた。  親父だけが、東京へ出てきて、友禅染色の模様師になったが、異色であった。  
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