第1章

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 随分と前の話だが、池田晶子さんという哲学者に嵌っていた時があった。残念ながら若くして亡くなったが、とても美しい方で、ご本人は自らを哲学者とはおっしゃらず、あくまでも一文筆家と言われていた。  私如きが池田晶子さんを語るのは、かなりおこがましいとは思うのだが、たまに思い出してしまうからつい人に話したくなる。もう彼女の本は手元にはないけれど、ずっと生きる事、死ぬ事を模索されていたように思う。  しかし何冊読んでも私には難しかった。池田さん曰く、自分の死は存在しない。あるのは自分ではなく人の死だけだ。死ぬという事は無になる事。無は何も無いという事。すなわち、死は無いという事だ。  う──ん、分かるようで分からない。人の死は亡くなる時に立ち会ったり、遺体を見て死を感じる事は出来るが、自分の死は見ることも感じる事も出来ない。だから自分の死はない。う──ん、まるで一休さんの問答である。  これに似たような件は何度かエッセイにも有ったと思うが、この件になると私は早々と思考停止になった。まあ私もいい年になった事だし、もう一度、読み直してみたら何か分かるかもしれない。  生前はいくつも雑誌にエッセイを書かれていて、そのひとつに週刊新潮の「人間自身」という連載があった。最終回は亡くなったすぐ後に発刊されて、タイトルはなんと「墓碑銘」だった。多分、死を覚悟して書かれたのだろう。  それはローマの話だと紹介されていたが、お墓ウォッチングというものがあるらしい。墓石に、亡くなった人がどのような人だったとか、その人が残した言葉だとかが刻まれている。それを散歩しながら読んで楽しむのが、お墓ウォッチング。  「へ~」「ほう~」「ふ~む」と感心しながら読み進んでいくと突然、<次はお前だ>という墓碑銘に遭遇し、死は他人事じゃないとハッと気付かされるというオチが付いていた。成る程ね、そりゃ他人事じゃない。人は生まれたときから死というゴールに向かってひたすら走らされる運命なのだ。  ちなみに実際刻まれたかは分からないが、池田晶子さんが自分の墓碑銘にとそのエッセイに書かれていた言葉は     ──さて死んだのは誰なのか──  さてさて私には高尚すぎて─今日もきっちり思考停止で終わる事にしよう。
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