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蘭の隣に座った男が、蘭の手を握って離さないので、少し離れた席から見ていた信は、気が気ではなかった。
男の手が、服のスリットから見えている太ももに伸びたのを見て、信は思わず立ち上がりそうになった。
蘭が目ざとく信に気が付き、微かに首を横に振る。
男は蘭がよそ見をしていることに全く気が付かず、たるんだ白い顔を蘭に近づけて、ばかばかしいことをずっとしゃべっている。絶えず動いている口からは、今にも涎が落ちそうだ。
蘭は微妙に体を動かして、男の手を避けた。
ドムの盛り場は二か所ある。上流の町と中流の町の境目にあるミランダ。中流の町の下の方にあるナランダ。
ドムの町に来たのは今日であるが、あまり時間もない。二人はさっそく、ミランダに潜入することにした。
蘭が一人になり、男をひっかけて、情報を得ると言い出したのは、蘭本人だ。
信はもちろん反対したが、蘭は一顧だにしなかった。
「だってこの方が効率いいでしょ」
着ていったのは、後宮での仕事着だ。色は藍色で目立たないが、身体にピッタリとした造りと、何より大きく開いたスリットが効果覿面であった。
一人で酒を飲む蘭に、何人かの男が声をかけたが、一人の男が近づいてくると、男たちは蘭の隣を譲って、離れていった。どうやら権力をもっているらしい。
男は周りも気にせず、蘭にべたべた触ってきた。
イライラしている信に、隣で飲んでいた男が面白そうに声をかけた。
「あの娘が気になるかい?すごい美人だねぇ」
振り向くと無精ひげに、伸び切った髪を一つに縛った男が、ニヤニヤしてこちらを見ていた。しまった、と思わず顔に出たのを、信は慌てて隠そうとした。
男は気にせず、小声でささやいてきた。
「あの娘に絡んでいる奴、上流のやつだぜ。最近、商いがうまくいっているのか、えらく威勢がいい。気に入った女は、賭場に連れて行く。その後は知らんが」
「何の商いだ?」
信も小声で訊くと、男は首を少し傾げた。
「分からんが、表に出てこないもので稼いでいるとすると」
酒をグイッと飲み干す。
「あんまり良いもんじゃないのかもな」
信は改めて、蘭に絡む男を見た。顔だけでなく、体全体がぶよぶよしているようで気持ち悪い。男の片手はいつの間にか蘭の腰に回り、何事が囁きながら、もう片方の手を蘭のスリットの間に遂に滑り込ませた。蘭の足の間で、男の手がもぞもぞと動くのが見えて、信は鳥肌が立った。
蘭は男に何か言うと、立ち上がって、信の方に向かって歩いてきた。信は戸惑った。隣の男に、蘭のことを気にしていると気づかれている。一緒に何かすると、男に見られるだろう。
蘭が信のテーブルの近くを通った時、蘭が何かに躓いた。信のテーブルをとっさに掴もうとした瞬間、テーブルのグラスをひっかけてしまった。派手な音をたてて、グラスが床で砕ける。
蘭が慌ててガラスを拾おうとしゃがみこむ。
信もつられて床にしゃがんだ。
給仕が飛んでくるのを横目で見ながら、蘭は早口でぼそりと言った。
「賭場に行ってくる」
席に戻った蘭が、先ほど蘭の足を撫でまわしていた男と奥の扉に消えてから少しして、信は自然に席を立った……つもりだった。
立ち上がった信の袖を、隣の男が掴んだ。
驚いて隣を見ると、男は相変わらずニヤニヤしながら言った。
「賭場は一見じゃ入れないぜ」
こんな喧噪の中、蘭の小声を聞き取ったのか?アランが目を細めると、男はグッと顔を近づけてきた。
「俺、裏口を知ってるぜ。連れて行ってやろうか」
胡散臭い男に、信はどうしようか迷った。
「賭場?そんなものがあるのか?」
とぼけてみせる信に、男はほとんど耳に口をつけんばかりにして囁いた。
「言ったろ?賭場の後は俺も知らない。彼女が無事に帰れるとは思わない」
この男はどういった男なのだろう。正体が分からない男に頼るのは不安だが、ここは裏があっても、乗っておいた方がいい。信はそう判断した。
信は男を睨みつけて、言った。
「見返りは?俺たちを助けて、何の得がある?」
男は酒臭さを振りまきながら、笑った。
「面白そうだからだよ……それに」
男は茶化すように肩をすくめた。
「あいつが嫌いだからね」
男は信を連れて、一旦店の外に出ると、裏口に回った。側の茂みに隠れているように言うと、自分は裏口から中に入っていった。
しばらくすると、黒い服に着替えた男がそろっと出てきた。手にも黒い服を持っている。
「賭場の給仕の制服だ。着替えろ」
不思議と男の呼気の酒臭さは残っておらず、よく見ると無精ひげも綺麗に剃られていた。本気で手助けしてくれるようだ。
「中に詳しいのか?」
信は着替えながら、聞いた。男はにやりと笑った。
「働いているのさ。今日は休みだけどね」
男はそれまで無造作に結んでいた髪をほどくと、丁寧に結びなおした。そうすると、長い髪も清潔に見える。
「今日で辞めることになるかもしれないけどね。さ、行こうか」
あっさりそう言う男に、信は眉をひそめた。面白そうだからって、そこまでするだろうか。しかし、今更、やっぱりやめると言われても困る。
気にはかかるが、信は代わりにこう聞いた。
「あんた、名は?」
男は少し考えて、答えた。
「あんたの名を知りたくなったら、俺の名も教えるよ」
急ごう、と言われて、信は黙ってついて行くことにした。男は裏口の戸を開けると、二人は中に滑り込んだ。
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