Ⅳ 不穏

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「おかえりなさいませ」  女は館の入り口にきちんと正座をし、手をついて館の(あるじ)を出迎えた。 「うん、ただいま」  主は軽く頷くと、妻の横を通り過ぎた。 「しばらくこちらにいられますの?」  妻は立ち上がり、主の後に続く。 「あっちの店はもう畳んだ。もう、ずっとこっちにいるよ」  妻の顔に喜びの色が広がった。 「そうそう」  主は屈託のない顔で妻を見た。年齢はもう三十を超えているのに、その顔のせいで、下手をすると十代に見えることもある。 「アリサも今日からここに住むよ」  たちまち妻の顔が歪んだ。妻は慌てて、表情を取り繕う。主はそんな妻の顔を興味深そうに見ていた。 「かしこまりました。すぐに部屋を用意いたします」 「うん、よろしくね、リュシオン。どちらも僕の愛しいモノだから、仲良くしてね」  足早に去っていく妻の後ろ姿を、およそ愛情とはかけ離れた目で主は見送った。  執事に上着や手袋を渡すと、主は居室の長椅子に寝そべり、思いっきり体を伸ばす。 「うーん、やっぱり自分の家はいいねぇ」 「ウェン様」  執事が恭しく声をかける。 「何?」 「明日のご予定はいかがなされますか」 「少しは休ませてよ」 「申し訳ありません」  執事が深々と頭を下げる。 「明日は兄上のところに行くよ」 「かしこまりました」  もう一度、頭を下げると、執事は部屋を出ていった。一人になったウェンは急にクスクスと笑い始める。 「それにしても、あの甘ちゃんにしては、仕事が早かったなぁ」  自分はその一歩前を行っている上での、発言だ。前回会った時は、まだ六歳だった。その頃から、自分で自分を痛めつけるのが好きな子どもだった。 「十六歳かぁ、大きくなったなぁ」  天井を見上げたまま、独り言ちる。 「あの女の子、僕も欲しいなぁ」  思い浮かべるのは、ミランダで北の大商人の息子に言い寄られていた女。あの()が北の息子を蹴り倒すさまを、ぜひ実際に見てみたかった。 「あの()がうちの館に来てくれたら、嘘でも抵抗してあげたのにな」  東の方に行っちゃうなんて、残念。  クツクツと一人で笑う姿はかなり不気味だった。扉をノックする音がし、妻より少し若い女が入ってくる。これまた、丁寧に頭を下げた。 「西のお館様」  呼びなれた主の呼び方で呼びかけるのを、ウェンは遮った。 「もう、西のお館様じゃないよ、アリサ」  黙って、アリサは頭を下げ続ける。 「ウェンでいいよ」 「ウェン様、ただいま到着いたしました。これからも、どうぞよろしくお願いいたします」 「うん、よろしくね」  最近まで西の大商人と呼ばれていた青年は、楽しそうに笑った。 「都もきっと楽しいよ」
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