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「おかえりなさいませ」
女は館の入り口にきちんと正座をし、手をついて館の主を出迎えた。
「うん、ただいま」
主は軽く頷くと、妻の横を通り過ぎた。
「しばらくこちらにいられますの?」
妻は立ち上がり、主の後に続く。
「あっちの店はもう畳んだ。もう、ずっとこっちにいるよ」
妻の顔に喜びの色が広がった。
「そうそう」
主は屈託のない顔で妻を見た。年齢はもう三十を超えているのに、その顔のせいで、下手をすると十代に見えることもある。
「アリサも今日からここに住むよ」
たちまち妻の顔が歪んだ。妻は慌てて、表情を取り繕う。主はそんな妻の顔を興味深そうに見ていた。
「かしこまりました。すぐに部屋を用意いたします」
「うん、よろしくね、リュシオン。どちらも僕の愛しいモノだから、仲良くしてね」
足早に去っていく妻の後ろ姿を、およそ愛情とはかけ離れた目で主は見送った。
執事に上着や手袋を渡すと、主は居室の長椅子に寝そべり、思いっきり体を伸ばす。
「うーん、やっぱり自分の家はいいねぇ」
「ウェン様」
執事が恭しく声をかける。
「何?」
「明日のご予定はいかがなされますか」
「少しは休ませてよ」
「申し訳ありません」
執事が深々と頭を下げる。
「明日は兄上のところに行くよ」
「かしこまりました」
もう一度、頭を下げると、執事は部屋を出ていった。一人になったウェンは急にクスクスと笑い始める。
「それにしても、あの甘ちゃんにしては、仕事が早かったなぁ」
自分はその一歩前を行っている上での、発言だ。前回会った時は、まだ六歳だった。その頃から、自分で自分を痛めつけるのが好きな子どもだった。
「十六歳かぁ、大きくなったなぁ」
天井を見上げたまま、独り言ちる。
「あの女の子、僕も欲しいなぁ」
思い浮かべるのは、ミランダで北の大商人の息子に言い寄られていた女。あの娘が北の息子を蹴り倒すさまを、ぜひ実際に見てみたかった。
「あの娘がうちの館に来てくれたら、嘘でも抵抗してあげたのにな」
東の方に行っちゃうなんて、残念。
クツクツと一人で笑う姿はかなり不気味だった。扉をノックする音がし、妻より少し若い女が入ってくる。これまた、丁寧に頭を下げた。
「西のお館様」
呼びなれた主の呼び方で呼びかけるのを、ウェンは遮った。
「もう、西のお館様じゃないよ、アリサ」
黙って、アリサは頭を下げ続ける。
「ウェンでいいよ」
「ウェン様、ただいま到着いたしました。これからも、どうぞよろしくお願いいたします」
「うん、よろしくね」
最近まで西の大商人と呼ばれていた青年は、楽しそうに笑った。
「都もきっと楽しいよ」
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