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自分の城である、執務室の扉がノックもなく開き、そこに現れた顔を見て、サム・カロイは、苦虫を噛みつぶしたような顔になった。
自分が今この世で一番嫌いな人物。しかし、一番必要としている人物が、そこにいた。
「お久しぶりですね、兄上」
ニコニコと擬音が飛び出しそうなワザとらしい笑顔を浮かべて、その男はスタスタ入ってきた。案内も請わなければ、供も連れずに入ってくるのはいつものことだ。兄弟水入らずで話したいからだと言う。
兄上などと思ってもいないくせに。
「いつ帰って来たんだ、ウェン?ドムは大変だったようだな」
サム・カロイはぶっきらぼうに言った。サムは弟と違って、表情を取り繕うことが苦手だ。ウェンはおや、と首を傾げた。
「おや、おかしいですね。大変だったようだとは。通達の書類を作ったのは、父上ではないのですか?」
それとも、と付け加える。
「次官である、兄上ではないですか?」
サムは押し黙った。
その顔を見て、ウェンは嗤った。
「いけませんね、兄上。父上の跡を継ぎたいのなら、素知らぬ顔で嘘をつくぐらいでないと、やっていけませんよ」
「……何しに来たんだ」
ウェンは大仰にため息をついた。
「何しにとはご挨拶ですね。誰のおかげで、この執務室を自分のものに出来たか、お忘れですか?」
サムの顔が強張る。
「帰京のご挨拶にうかがったんですよ。ドムの大商人は辞めました。あなた方が陛下を懐柔するためにお渡ししていたものは、もう入ってきません」
ニコニコ
ウェンの笑顔は崩れない。
「近衛兵警備隊長は優秀なようで、あなたが作った通達を、すみやかに実行しました。東と北と西の倉庫にあったカエルムはすべて焼却処分。道も今塞いでいます。多少出回っているものがありますが、じきに手に入らなくなるでしょう。陛下を取り込む、または脅すネタもここまでです」
サムは次第に色を失っていった。
「もしかして、予想していなかったんですか。あの通達が実行されたらどうなるか。それとも、もみ消されると思いました?」
いつものように?
ウェンはむしろ憐れみを浮かべた顔で、兄を見た。
「愚かですねぇ」
ウェンはまたニコニコ顔に戻った。
「これからあなた方はご自分の力で、成り上がってください」
せいぜい頑張ってくださいね。
そう言って、ウェンは部屋を出ようとした。そして思い出したように、振り返っていった。
「父上にも、そうお伝えくださいね」
兄の目は、今や完全にウェンを睨みつけていた。
「おい、お前はこれからどうするんだ?」
かすれた声で、サムが訊く。扉に手をかけながら、ウェンは振り返らずに言った。
「あなた方には関係がないことです」
売女の子が。
そう罵るのを背中に聞きながら、ウェンは執務室の大きな扉を閉めた。
扉の外では、執事が待っていた。扉の音と共に、そっと目線を下げた。
「父上は?」
ウェンが訊くと、執事は顔を上げずに言った。
「四子宮だそうです」
「ははーん」
ウェンは楽しそうに声を上げた。執事は微動だにしない。
「愛しの我が弟のところかな」
さすが父上。息子ほど愚かではないらしい。
四子宮に足を向けながら、ウェンは思案した。どうすれば、一番効果的かな。
執事が後に続きながら、珍しく焦ったような声を出す。
「四子宮に行かれますか。では先ぶれを」
「え、それ必要?」
憤慨したように言ったのは、わざとだ。十年ぶりに会う臣下の息子が、前触れもなく王太子を訪ねれば、無礼となる。執事の懸念も最もだ。しかし、ウェンの場合は結局許されるだろう。
「さて、どうするかな」
すると、向かう先から、年配の男が歩いてくるのが見えて、ウェンは足を止めた。
「父上」
ウェンが父上と呼ぶ人物、内大臣カロイもウェンに気が付き、足早に近づいていた。
「戻ったか」
一言それだけ言う。
「はい」
ウェンもそれだけ答えた。
「父上は王太子様のところに?」
カロイは頷いた。声を潜めて言う。
「陛下は薬の禁断症状が出ておられる。アラン様はこれを機に止めさせるとおっしゃっている」
「……」
カロイは更に声を潜めた。
「カエルムはもう手元にないか?」
ウェンは申し訳なさそうに笑った。
「ええ、すみません。近衛兵が優秀だったもので」
カロイは頷いた。そして、今気が付いたように言う。
「今日は何しに、ここに来た?まさか私に挨拶をしにではないだろう?」
「やだなぁ、父上」
ウェンは媚びるように微笑んだ。
「帰京の挨拶をしに来たんですよ。僕はそんなに恩知らずではありません。先ほど、兄上のところに伺っていました」
カロイは鼻で笑った。
「では、サムは今荒れてるな。用事は後にしよう」
そう言うと、去っていった。後ろ姿を見送りながら、執事が再び尋ねる。
「四子宮へ?」
いや、と言って、ウェンは今来た道を戻り始めた。
「楽しみは後に取っておくよ」
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