Ⅳ 不穏

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Ⅳ 不穏

(せい)さん、どこまでいくんですか」  (くう)がぼやくように、聞いた。  青は笑った。薬師が薬草を求めて、一日中歩き回るのは、常のことだ。しかし空はすぐに文句を言う。 「森の端の崖まで行くよ」 「はえ~」  空は情けない声を出した。  空が青のもとにやってきたのは、一年ほど前だ。空は当時まだ十五歳で、「はなまつり」を終えていなかったが、五人兄弟の末っ子である空は、両親の生業(なりわい)を継げず、他の生業を探していた。  一方、青は娘たちに薬師を継いでもらえなかったので、技を引き継いでくれる者を探していた。薬師は村人にとっても、なくてはならない生業だ。是が非でも誰かに継いでもらわなくては困る、と探していたところに、余った空がいたというわけである。  十五歳になっても、相変わらずぼんやりしている空で大丈夫かという声もあったが、他にいないのだから仕方がない。  皆が空の背中を押した。  そうして、はなまつりを待たず、とっとと青に弟子入りしたというわけであった。  一年がたったが、空は根性はないが、仕事は楽しくでき、仕事は早くないが、ゆっくり丁寧にこなすことができた。  最初は、青に言われるまま、青が採ってきた薬草を乾燥させるため並べて干したり、干してあった薬草を集めて仕分けたりといった作業が、ほとんどである。  そんな単純作業ばかりでも、空は楽しくやることができた。これはなかなか重要なことだ。  半年前ほどに「はなまつり」を終え、大人になった空は、薬草採りに連れて行ってもらえるようになった。 「ぼんやりと歩くなよ」  青は釘をさした。空の空想癖は、今でも時々顔を出す。 「薬草がない場所でも、そこの植生を見ておけば、薬草が生えているところも、分かってくるようになる」  言いながら、青は道々に生えている植物たちを教えた。だが、空は物覚えはあまり良い方ではない。すぐに頭がパンクする。  足元の植物を見ながら、健気に植物の名前をぶつぶつ言っている空を見ながら、蘭は物覚えがよかったのだなと思った。  蘭は修行ではなく、遊びで青の薬草採りに付き合っていただけなのに、薬草の名も、植物の名も、一回聞いただけで覚えていた。  比べてはいけないと思っていても、ついつい思い出してしまう。  やがて森の端が見えてきた。針森を街道とは反対の方向に進んでいくと、森の端に到達する。森の端は険しい崖になっていて。崖の下には広い川が流れている。さらに川の向こうには、また森が広がっている。その先は見えない。 「ずうっと、森ですかねぇ」  崖の上から、眼下を見下ろし、空は尋ねた。空を連れて、この森の端まで来たのは初めてだ。  青はちらりと空を見た。 「森の向こうには別の国があるよ」 「……え?」  さらりと言った青の言葉に、空は一呼吸おいて驚きの声を上げた。  太陽神が治めるこの国は、百二十年ほど前に、初代太陽王によって建国された。その時、他の国とは国交を殆ど断ってしまったし、今日まで侵攻されることもなかった。この国の人間は、自分の国の外に別の国があることに、意識が及んでいないのである。  空も、針森の外には、都やら他の町があることは分かっていても、それらを全部含めたこの国の外に、違う国があるということまでは考えていなかった。 「別の国……」  空が呟く。 「ガザ帝国という」 「ガザ……」  空の目がだんだん遠くに行こうとする。 「ガザの人間が、針森の村に入り込んだこともあるよ」 「村に?」  空の目が戻ってきた。 「入ってきて、どうしたんですか?」 「村人になったのさ」  今度は青が遠い目をした。  遠い昔、青の周りの人間の運命を変えていった男。  しかしそれは昔の話だ。青は現実に戻ることにした。  ここにしか生えていない薬草が、この崖には植生していた。その為に、ここまで来ると言っていい。比較的上の方に生えていて、採りやすいものだけを採って帰る。  青は目当ての薬草を空に教え、自分はロープを近くの木に結び付けて、崖を降りる準備を始めた。 「青さん」 「なんだ?」  ロープを固く結わえながら、青が応じる。 「あそこにたくさん生えていますよ」  ん?と首だけひねって、空の差した方を見た。確かにたくさん生えている。しかし、そこの崖の角度はかなり急で、足場もない。木の根っこのようなものが飛び出しているだけだ。 「あそこは無理だろ」  青がなだめると、空は何でもないことのように言った。 「ちょっと行ってきます」  そう言うと、ロープの反対側を自分に結び付け、崖から生えている木の枝や、根っこを軽々と伝って行った。ロープにはほとんど力がかかっていない。空の運動神経と身軽さは超人の域だ。  あっという間に、籠いっぱいに薬草を詰めて帰って来た弟子に青は感心する。 「さすがだな」  空はナイフも得意で、鹿なども一人で斃すことができる。それを思い出して、青は言った。 「狩師にならなくてよかったのか」  空はぽかんとしてから、ああ、と合点がいったように照れる。 「動物を殺すのは、あまり好きじゃないんですよ」  食べるくせに、そんなこと言えませんけどね、ときまり悪そうに笑った。 「あれ?」  空がおかしな声を出した。見ると、眉をひそめて、川向こうの森を見ている。 「どうした?」  青が尋ねると、空が指で森を指して言った。 「あそこ、森に道ができてませんか?」  空の指さす所を見ると、確かに緑の森の中に、土色の線が森の向こうから、川に向かって伸びていた。  材木でも運ぶための道かもしれない。しかし青は、不吉なものを見たような、嫌な予感がした。
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