火曜日の時計屋

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「それもあるのかな?でもね、俺が本当に逃げたいって思ってるのは『大人でいることを強制される世界』なんだ」 「大人でいることを強制される世界?」 「大人ってなんだろうね?多分、年齢のことだけを言っているんじゃないと思うんだ。大人っぽい雰囲気とか、大人な考えとか、一口に大人って言っても色んな意味がある」  そう語る物憂げな横顔に親近感を覚える。月宮さんの目には、私がこんな風に写っていたのかな。 「大人になったら働かないといけない。働いてお金を稼ぐ。お金がないと生きていけないから。それはそうなんだけど、それが時々すごく虚しく思えるんだ。もちろん、その仕事をやりたくてしていて、やりがいを感じているならいいんだけど」 「季瀬さんは今の仕事に満足してないんですか?」 「そういうわけじゃないよ。仕事が嫌とか、辞めたいってわけじゃない。でも、もっと自由になれないかなって」 「自由?」 「大人なんだから仕事をしろ、大人なんだから自分で稼げ、大人なんだから自立しろ、大人なんだから……。ただ歳を重ねてるだけなのに、周りから『大人』になることを求められる。そのことに疲れちゃったんだよね。俺はさ、大人になる前に自分の人生を生きたいのに」 「自分の人生を生きる……。なんとなくわかる気がします。私も今まで周りに流されながら、行き当たりばったりで生きてきたから、自分の人生と自分自身と全然向き合えてなかったことに、ここに来て初めて気がつきました」 「本当?高校生にこんな話したら引かれちゃうんじゃないかと思ったけど、よかった」  金魚鉢の夜空に波紋のような水色の花火が広がる。二つ、三つと広がる波紋が共鳴して、衝突して、そんな波の騒ぎを知らない金魚が悠然と泳いでいる。 「会社に入って、大人でいることを求められると自分が大切にしてたものがだんだん擦り減っていく感じがするんだ。仕事を通して叶えたいこと、稼いだお金でやりたいこと、働くことの意味、人生の夢。会社は利益第一で、とにかく働け、売り上げ伸ばせって。お金と利益ばかりで、上の連中は富と権力と名誉にしか興味がない。そりゃ存続よりも大事なことなんてないかもしれない。生きることよりも大事なことないんてないみたいに。でも本当にそうかな?ただ生きることが正しいなんて、そんなことは絶対にないと思うんだ」 「どういうことですか?」 「人が働く理由って何だと思う?」 「うーん……お金を稼ぐ為、その仕事でしかできない経験をする為、夢を叶える為、とか?」 「後半二つが本来の仕事をする意味だと思うんだよね。仕事よりも生きる意味に近いかも。使命感や喜びを感じられることが、もっとも生きがいを感じられることだと思うから。でもそんな人はマイノリティなんじゃないかと思う」  夢が必ず叶うとは限らない。果てる夢も、破れる夢も必ず存在する。なら、夢を見ることにどんな意味があるんだろう。夢を見ること自体に意味があるなんて、そんなことは戯言だ。叶えたいから夢なのに。  夢は必ず叶う。叶えるまで諦めない。そんな無責任で情熱的な御託は大人になっても通用するのか。  見ていた夢がどんな夢だったかを忘れても尚、捨てるふりをして抱き締めている未練がましい私はどっちなんだろう。夢を抱いた少年少女の夢はどのくらい役に立つのか。 「季瀬さんの夢ってなんですか?」 「……」  季瀬さんはすぐには答えなかった。横を見ると豆鉄砲を食らったように見開いた目に、金魚と波紋の彩りが写る。少しの沈黙の間に夜風が流れる。
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