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 TRANS社の椿と知り合ったのは約一年前である。会社の健康診断で人間ドックへ行ったとき、クリニックと同じビルでTRANS系列のヘルスケア会社がブースを出していて、そこに椿がいた。生活習慣改善とか日常的なエクササイズのすすめとか、ありがちな呼びこみにつられて俺はうっかり話を聞いてしまい、アンケートに答えてしまった。それが最初のきっかけで、今こうして俺は「モフスキン」を着用しているのだ。  最初この話を聞いたときは、荒唐無稽な内容だとすこし呆れたものだった。購入できるのはごく限られた人だけだというから、個人情報収集の餌かと考えもした。だが椿が本気の顔で「帰宅後や休日にはお好きなモフモフに変身して仕事のストレスを発散できるのですよ?」などというし、だんだん俺は詐欺でもいいから乗りたくなってしまったのだ。  サラリーマン生活に倦んでいたとか、家族も恋人もいないから誰に迷惑をかけるわけでもないとか、そんな風に考えたせいもある。両親は俺が就職する直前に自動車事故で仲良く逝ってしまった。双方の祖父母はもっと前に亡くなっていて、他の親戚づきあいもなかったので、俺は天涯孤独の身になって両親が遺した一軒家で暮らし、もうかれこれ十数年というわけである。両親が亡くなった時はいくばくかの保険金も入ったのだが、家のリフォームローンやその他の借金を返すと消えてしまったから、俺はサラリーマンの給料で慎ましく暮らしていた。 「凄いと思いません? 夢のような製品なんですが売れる人は少ないんです。まだ適合条件の合う人にしか着れませんから、宇宙飛行士になるみたいなものですよ。もちろんみなさんが使える日がくるように開発はずっと進められているんですが」 「えっとその……猛獣になれるの? ネズミとか?」 「ワシントン条約保護動物に変身した場合、動物園から逃げ出したと思われるので公道には出られないですね。でもゴルフ場を持っているお客様におひとり、ライオンへ変身する方がいます。当社のケアとしては――」  椿の話は毎度長かった。ひとつたずねると二十くらい返ってくる。いつもツバを飛ばすような勢いで早口で喋った。名は体をあらわすとはいったものである。二重瞼の丸い眼はくりっと素早く動き、どこかリスやハムスターを思わせた。 「ローンでのご購入でも、実物が想像とちがったなら三十日まで無条件、送料無料で返品できます。クーリングオフ期間というのはですね、頭を冷やして考える時間なんですよ。だからまず試してほしいんです。条件が合うとわかった以上、あの縁側を活用しないなんてもったいない」  あの縁側とは俺の家の縁側のことである。俺が子供のころは祖父の定位置で、籐椅子に座って新聞を読んだり碁を打ったりしていた場所だ。リフォームの後はサンルームとしても使えるようになってる。昔は庭からよじのぼってきた近所の猫が、よく祖父の隣でひなたぼっこをしていた。両親も老後はそんなふうに並んでひなたぼっこするつもりだったのかもしれない。  そんなこんなで結局俺はモフスキンを買った。いざ購入を決意しても手続きだの検査だの調整だので何か月も煩わされたが、モノが手元にある今はそんなのは些末な苦労に思える。 「にゃー(あー)にゃいにゃにゃごにゃ(きもちよすぎー)ー」    なんて柔軟に動くんだ。俺は二階の寝室のベッドの上でシーツに体をすりつけながらくねくねしていた。もちろん黒猫の姿でだ。今なら誰に見られても「可愛い~」といわれるにちがいない。全裸の三十五歳おっさんがくねくねしていたらたぶん気持ち悪いだけだが。  シーツの上で思う存分くねくねし、あくびをし、のびをした後は運動の時間である。階段をはじめて降りたときは心の底から感動した。足を踏み外した――と思った瞬間体が勝手にくるりとまわって、宙返りのあと無事着地できたのだ。 「にゃあ(すげえ)にょににゃーご(ジェット)ゃわんにょににゃ(コースター!)ーん」  いや、体操選手かな?  なんでもいい、俺は自由だ! 舞い上がった気分で俺は家じゅうを探検した。誰もいないから勝手に遊びまわれるのだ。ドアのたぐいは案外簡単に開けられるとわかったし、トイレットペーパーを引き出すのが無限に楽しいのもわかった。いや俺の頭はちゃんと働いているはずなんだが、猫の体になると猫の遊びは楽しすぎるのだ! トイレットペーパーって引っ張ったら出てくるんだぜ? 笑いがとまらないとはこのことだ。  ちなみにどんな技術の魔法でこれが実現しているのかは何度も椿に説明されたが、ほとんどなにも理解していない。それに今、俺は猫だ! そんなことはどうでもいい!  部屋の探検をすませると今度は縁側から庭に降りてみた。湿った土が肉球を刺激して、早朝の冷たい空気がヒゲをふるわせる。隣家との境は植木と古めかしいブロック塀だ。俺はえいっと塀に飛び乗る。 「にゃにゃごしゃにょにに(あーみはらしがいいー)ゃー」  にゃあにゃあいいながら外の道路との境目まできて、塀から降りてみたい誘惑にかられた。まだ人もいないし、ちょっとくらい――と、そのとき風に乗っていい匂いが漂ってきた。俺は道路の先をみた。大きな犬がこっちに向かってくる。薄茶の長い毛に覆われて、垂れた耳に長めの鼻面。散歩だろうか。飼い主はどこにいるんだろう。俺はふんふんと風の匂いをかいだ。またいい匂いがする。  猫が犬をいい匂いだと思うなんて変だなとは思ったが、俺という人間が皮をかぶってこうなっているのだからそんなこともあるのかもしれない。だが犬が近づくと警戒心が芽生えた。俺は塀の上をあとずさり、庭に飛び降りた。  玄関をあがって寝室に駆け戻り「猫かぶり終了」と唱えて変身を解くともういつもの朝だった。夢から覚めたような気分だが、階段を降りながら「さっきここを宙返りしたんだ……」と考えると顔が勝手ににやけてくる。宙返りだぜ! 三回目の変身ができるのは十二時間後。会社に行って帰ってきたころだ。  腹はぺこぺこで朝食がうまかった。満員電車も苦にならず、会社についたときも俺の気分は上がりっぱなしだ。鼻歌まじりでパソコンの電源を入れ、給湯室にコーヒーを取りに行った。西野匠(にしのたくみ)がコーヒーマシンの横にいた。 「おはようございます。コーヒーですか?」 「おはよう。うん、そう」  西野に答えながら俺は鼻をぴくぴくさせた。なんだろう、いい匂いがする。 「志賀さんの分もいれますよ」 「ありがとう。西野、今日は香水とかつけてる?」 「え?」  西野は驚いた顔になった。「いいえ。どうして?」 「気のせいかな。いい匂いがした」 「コーヒーの匂いでしょう」  俺は紙コップを受け取った。西野はだいたい半年前、業界大手からなぜか中堅どころのうちへ転職してきた男だ。俺より五歳ほど下のはずだが、前職のクライアントとのつてを持っているし、ややこしい要求を整理するのが上手い頭のいい男で、俺はかなり気に入っていた。俺が並みの背丈なのにこいつは背が高い方で、今のように給湯室で並ぶと見下ろされてしまうのだが、こうやって俺の分までコーヒーを入れてくれたり、忙しいときは昼の弁当を買ってきてくれたりする。  頼んだわけでもないのに西野がそんなことをするのに最初はとまどった。とはいえ「ついでなので」といわれると今ではついつい甘えてしまう。学生時代は剣道をやっていたとかで、若干きつい顔立ちだがなかなかの男前。服装もつねにクリーニングから持って帰りましたという感じのパリッとしたもので、鞄や時計も洒落ている。ラーメンにたとえるとジューシーチャーシューと青菜がのった魚介しょうゆ系というところか。社内の女性陣やクライアントにもウケがいい。 「志賀さんこそどうしたんですか。いつもより早いですね」 「ああ、ちょっと早起きしたからな」 「何かありました?」 「わかる?」  俺は顔がにやけそうになるのをこらえる。モフスキンについて西野に話すつもりはない。だいたい誰も信じないだろう。 「ちょっと高い買い物をしてさ」  西野はコーヒーの湯気の向こうでまばたきをして「車とか?」とたずねた。 「いやいや」 「まさかマンションとか? 志賀さんってひとり暮らしですよね」 「家は実家だよ。親が死んでからひとりだけど。そんなんじゃないんだ」 「教えてくださいよ」 「悪いな、秘密」  やっぱり西野はいい匂いがした。食べ物の匂い――ともちがう。くっつきたくなってしまうような匂いというか……。俺はいつのまにか彼の方へ体を向けていた。スーツの肩のあたりに鼻をすりつけて匂いを嗅ぐことを想像して、そんな自分にはっとする。何を考えてるんだ、まったく。朝の変身の影響が残っているのかもしれない。 「志賀さんもいい匂いがしますよ」 「何いってるんだ。俺なんかクリーニングも適当なんだぜ。もう行く」  そういって席に戻ったものの、まだ少し余裕があった。俺は鞄からモフスキンのマニュアルと契約書を取り出し、小さい文字で書かれた「重要事項」に眼を通した。クーリングオフ期間はあと二十九日。すでにそんなことは考えられなかった。なんといっても、猫に変身して宙返りだぜ!「頭を冷やして考える」なんて時間の無駄というものだ。  視線を感じて顔をあげると、西野がじっと俺をみていた。
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