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 日曜日、ついに俺は史上最大の大冒険を敢行した。五回目の変身のあと近所の公園へ出かけたのである。ぽかぽか陽気の真昼間で、空は薄青に霞んでいた。しかし天気予報は夕方ごろから雲行きが怪しくなると伝えていたので、お天気がいいうちに家に帰るつもりだった。  マニュアルによると六回目以降は変身間隔を十二時間とる必要はなくなるらしい。ここまでトラブルなしに経過したということは、ナノマシンの調整がすんだというしるしなのだそうだ。真昼間の外出とあって俺は多少緊張していた。目的地の公園は人間の足で歩けば十五分程度の距離だ。図書館や公民館が隣接していてだだっ広く、ちょっとした森や人工の小川、芝生の広場もあるから、晴れた週末は家族連れや犬を散歩させる人が緑の中で遊んでいる。  それにしても、何度やっても変身はすごい。俺は黒猫の姿でテントを抜け出しながらまた語彙力皆無の感想を思った。毎回「今世紀で最大のすごさ」とか「今回はいつもにもまして最高」とかいいたくなるので、ほとんどボジョレーヌーボーだ。  テントは変身のためにわざわざ庭に張ったのである。猫の手ではさすがに戸締りができないから、着替えと鍵を隠すためだ。モスグリーンのテントは小さめで、広げたのは最後の家族旅行以来だった。ひどく懐かしかった。  そして公園は広ーーーかった。木、木、木、木がいっぱい! ここで俺ははじめてネズミを目撃した。ひえっどうしようっ猫ともあろうものがネズミにひるんでは――と思ったが、やっぱり避けた。遊歩道わきの植え込みの迷路を歩き回り、疲れると日のあたる石畳にねそべる。土と水と草をいい匂いだと感じるなんていつ以来だ?  そのときまたべつの種類のいい匂いがした。前に猫の姿で嗅いだ匂い。俺はごろんと体の向きを変えた。ふんふん、と地面を嗅ぎながら近づいてきたのは犬だった。金曜の早朝、二回目に変身した時に塀の上から目撃した犬だ。  俺は起き上がった。犬は猫のことをどう思っているのか? という問いが頭にうかぶ。エサ? おもちゃ? なんにせよ、相手は俺よりずっとでかい。鉢合わせは避けたい。素早く植えこみの影に潜る。顔を突き出してみていると、犬は一度立ちどまり、空中に鼻をむけて匂いを嗅ぎ、そしてまた俺の方を向いた。なんだ、もしかして狙われてる俺?  犬は俺をじっとみつめた。誰かの眼つきに似ているような気がする。毛並みはきれいだしスタイルもよい。鼻面をこちらに向けてくる。触れそうになったところで俺は一歩植えこみに下がった。高校生らしい騒がしい一団が犬のうしろからやってきた。どたどたと足音が響く。俺は木の根のあいだを縫って植えこみの反対側へ抜けながら、野良猫がすぐに姿をくらませる理由を再認識する。それにしてもあの犬、飼い主はどこにいるのだろう? 首輪、あったっけ?  ぶわっと風が吹いてきて、天気が変わりはじめたのを感じた。そろそろ帰ろう。  俺の家は回り道や行き止まりの多い住宅街の中にあるが、猫の体と眼でみれば他にも無数の道がある。俺は他の家の庭や塀をたどって近道した。無事自分の庭に戻ったとき、空は雨雲がたれこめていた。テントで変身を解除して家に入りながら、俺はなんとなく落ちつかなかった。あの犬のことが気にかかっていたのだ。迷い犬ではないだろうか。最初にみたのは金曜の朝だった。散歩のときにはぐれたとか?  保健所に連れていかれたら可哀そうだし、はぐれたのならきっと飼い主が探しているだろう。  どうしようかと考えたが、雲行きがさらに不安になってきたので心をきめた。今度は変身せずに公園の方へ歩いていく。念のため傘を持ってきたのは我ながら偉かった。雨が降り始めたからだ。  さっき犬に遭遇した遊歩道を歩き出したとき、ぽつぽつと水滴が落ちてきた。心の奥底では犬がいなくなっているのを望んでいた。しかしあずまやのある広場まできたとき、散りかけた梅のあいだに薄茶の毛並みがみえた。俺の方へやってくる。 「どこの子だ? 迷子か?」  雨雲のせいであたりは急に薄暗くなっていた。そろそろ日が落ちるころでもある。傘の足元にやってきた犬はおとなしくお座りをした。人間の眼でみてもけっこうでかいな、と俺は思った。大きいしきれいだし馴れているから飼い犬だろうが、首輪がみあたらない。そっと頭から首筋、背中を撫でてやると、ハァハァと舌を出して上目遣いに俺をみる。 「そんな顔するなよ。どうしようか」  俺はひとりごとをいった。雨は大粒ではなかったが通り雨という感じでもない。とりあえずうちに連れて行ってネットで迷い犬情報を探すか。こういう時は一戸建ては便利である。俺しかいないから文句もいわれない。  歩き出すと犬は吠えもせず大人しくついてきた。雨がだんだんひどくなってきたので、せきたてられるように俺も急ぎ足になる。帰りつくと玄関のたたきに犬を入れ、そしてふと困った。繋いでおくにしても首輪もリードもない。さすがにこのサイズの犬を家にあげるのはどうかと思う。  そうだ、テント。 「ちょっと待ってろ」  俺は急いで階段下の物置へ行った。長いこと使っていなかった電池式のランタンをひっぱりだし、洗面所で古いバスタオルを何枚かとる。 「こっちだ」  傘をさして庭に出る。テントは雨の中に鎮座していた。昔は車を停めていたコンクリの上に張ったから足元は地面ほど悪くない。犬は尻尾をふったが、なんだかしょんぼりしている。俺は笑って「元気出せって」といった。先にテントに入って靴を脱ぎ、ランタンの明かりをともすと犬が「クゥン」と鳴いた。 「入れよ。拭いてやる」  俺の言葉がわかったように犬は中に入ってきた。俺は膝をついて、濡れた毛を拭こうとバスタオルを広げた。犬は大人しくされるままになっている。犬も猫も家で飼ったことがないから、こんなときにどうしたらいいのか俺はよくわからなかった。最近は外も寒くないし、一晩くらいここにいてもらってもかまわないだろう。毛が乾いたら何か食べるものを探そう。パンでもいいんだろうか?  毛皮の水滴をぬぐったバスタオルをほうりだし、俺はテントの床に座りこむ。 「くすぐったいな」手を舐められて思わず笑った。「テントがあってよかった」  つぶやいたのはただのひとりごとだ。俺は犬にきかせるとも自分にきかせるともつかず、適当に喋った。 「中で変身するために張ったんだ。知らないだろう。俺は変身できるんだぜ……さっきおまえが公園で会った猫が俺だ。科学ってすごいよな。科学っていうか、魔法みたいだ」  犬は俺の隣、腕の下でおとなしくしていたが、顔だけこちらに向けてハァハァ舌を出す。 「このテント、昔家族がいたときので、最後に使ったのは俺が――高校生か。案外使えるもんだよな。捨てずにいてよかった。変なことで役に立つ」  ランタンの明かりだけで狭い空間にうずくまっているのは妙に気分が落ちつく。遠くの山にキャンプに来たような錯覚のせいだろうか。俺はふだんなら誰にもいわないことをぶつぶつとつぶやいた。 「けっこう捨てたんだ。取っておいてもしかたないから……親の服とか、雑誌とか、わけのわからない小物とか。食器なんかも。ひとりじゃ多すぎてさ……」  犬の体が俺にぴったりくっついてくる。雨で気温が下がったのか、ぬくもりがうれしかった。こんな風に誰かと寄り添っていたことなんてずっとなかったような気がする。どのくらい座っていたのだろう。 「何かエサになるのを探すよ。それと水か。それと……迷い犬情報をネットで探して……おまえ、なんかに似てる。なんだろう……」俺はちょっと考え、何気なく口走った。「西野みたいだ。西野ってのは俺の会社の人間なんだが、なかなかできるやつでさ……」  とたんに犬の息が顎にかかった。ざらついた舌が首筋をペロッと舐めてくる。 「おいおい、なんだよ」  俺は笑いながら犬の頭をぽんと軽くたたいた。チューでもするように鼻先に唇が触れたのはたまたまだ。故意じゃない。 「いい子だ。すぐ戻るから大人しくしてろ」  ランタンを持って家に戻るとパソコンで迷い犬の情報を検索した。薄茶の大型犬の届けはみあたらない。迷い犬掲示板に書きこんで、それと警察に聞いてみるべきだろう。それよりも先に水とエサか。  台所で犬が食べられそうなものを探してから庭に出た。まだ小雨が降っているが、テントは静かだ。俺は腰をかがめて中をみた。バスタオルが散らばっているだけで、何もいない。  もうどこかへ行ってしまった? 残念な気分で俺は水の皿をテントの床に置いた。その後も翌朝まで何度かテントを確認してみたが、犬は戻ってこなかった。
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